朝の里を後にしたアカネは、地図にも載らぬ“星渡りの野”へと足を進めた。
そこは、空と語がもっとも近くなる場所と言われていた。
火種石は、朝の光に反射して柔らかく煌めき、風標は星図のような螺旋を描きながら揺れていた。
「語は地に宿り、風に乗り、火に灯る……。ならば、空にも語があるのだろうか」
そんな思索の中、草原の中央に建つ一柱の塔が見えた。
天を指すような細い石の塔。
その周囲には、祭壇とも方位石ともつかぬ輪がいくつも配置されている。
塔のふもとには、ひとりの青年がいた。
白い衣をまとい、手には細い弦楽器を抱えていた。
「旅人か? 君の語は、どこへ向かおうとしている?」
彼の声は風のように穏やかで、どこか星明かりのような透明さを帯びていた。
「アカネ。語を集め、継ぎ、そして創る旅をしている」
青年は静かに頷いた。
「私はリツ。空に祈る者。星々の語を受け継ぐ一族の末裔だ」
アカネは思わず息を呑んだ。
「星の語……」
「かつて空を見上げた者たちは、星の瞬きに語を見た。永劫に失われることのない、響きの連なりだ」
リツは塔の中へ案内した。
そこには、夜空を写したような天井が広がっていた。
青黒の壁面に無数の光点が埋め込まれ、それぞれに古代語のような記号が添えられている。
「これは“星紋”。語の発音ではなく、語が祈りとして発せられたときの“願いの波形”」
彼は小さな火を灯し、弦楽器を奏で始めた。
すると壁の星紋が揺れ、低く、深い共鳴音が塔の内壁を満たしていった。
「星は沈黙しているが、語を持たぬわけではない。ただ、人がそこに“願い”を込めたときのみ、それは語となる」
アカネは火種石を取り出し、自身の語を解き放った。
火、風、月、無、そして響き。
それらが旋律に乗って舞い上がり、天井の星紋と共鳴を始めた。
その瞬間、塔の中央から一本の光の糸が空へ向かって立ち昇った。
「これは……星の語が、応えた?」
リツは頷いた。
「君の語は、多くの祈りと共鳴した。かつて多くの者が、同じ空を見上げ、同じ願いを語ったのだ」
アカネの頬に風が触れた。
だがそれは、これまでの風とは違った。
もっとも高い空から、まっすぐに届いたものだった。
「語は地を歩くだけではない。天を渡り、時を超えて、未来へも繋がる」
火種石が白銀に輝き、風標はゆっくりと塔の天井を指した。
そこに、新たな星紋が生まれていた。
それは“創星”の紋。
語が未来の誰かに届いた証だった。
リツが静かに告げた。
「君は“継ぎ手”であると同時に、“響き手”となった。
語を未来へ響かせる者だ」
アカネは静かに目を閉じ、心の中で語った。
それは誰に届くともしれぬ祈りだったが、確かに星々の間を駆けていった。
旅はまだ続く。
だがこの夜、語は空を越え、時を超え、響きの彼方へと放たれていった。
星を繋ぐ糸として。