森に、ひとつの静けさが戻っていた。
だがそれは、かつての“沈黙”ではない。
語られ、聴かれ、そして祈られた“癒しの余韻”が静かに息づいていた。
語の樹は、確かに育っていた。
枝先には、風に揺れる“語の実”がいくつも実り始めていた。
けれど、イリカは知っていた。
語は実るだけでは意味を持たない。
それを“誰かに届ける”ことではじめて、“命”として成るのだと。
◇
その日、彼女はひとつの決意を胸に、“語の祠”を離れた。
向かった先は、村のはずれにある小さな家。
そこには、語を持たずに生まれた少年がいた。
名はリョウ。
生まれてから一度も声を発したことがなく、
誰とも語を交わすことのないまま育った。
森の者たちは彼を「沈黙の子」と呼んだが、
イリカは彼の目に、いつも“音のかけら”のようなものを見ていた。
◇
家の前に立ったとき、リョウは扉の影から顔を出した。
イリカは微笑んで、ひとつの小さな包みを差し出した。
中には、熟した語の実がひとつと、
イリカ自身が編んだ“語の葉”が添えられていた。
「あなたに、語を贈りたくて」
リョウは何も言わず、ただじっとそれを見つめた。
イリカは言葉を続けなかった。
代わりに、そっと地に膝をつき、葉に指で語をなぞる。
「わたしは、あなたの沈黙に寄り添いたい。
あなたが語を持たずとも、あなた自身が“語”なのだと伝えたい」
リョウは包みを抱きしめた。
そして、涙をひとしずくこぼした。
その涙が、語の実に触れた瞬間、実はかすかに光を放ち、種をこぼした。
◇
その夜、イリカは森の中にその種を植えた。
土に触れると、温もりがじわりと伝わってくる。
(語とは、誰かに渡されたとき、土に還るものなのかもしれない)
芽吹きの音は聞こえない。
だが、森はそれを知っている。
木々がわずかに身じろぎし、
土が柔らかく呼吸するように広がる。
「ありがとう、リョウ。
あなたの沈黙が、わたしの語を深くしてくれた」
◇
翌朝、語の樹の根元に、見慣れぬ若葉が生えていた。
イリカはそれを見つめ、そっと語を口にした。
「癒しとは、“語る”ことでも、“聴く”ことでもない。
ただ、“共にある”こと――そのものなんだね」
森が静かにうなずくように、風が通り抜けた。
草が揺れ、葉がひとひら落ちる。
それはまるで、誰かの沈黙が“土に還った”合図のようだった。
語は、今日も芽吹いている。
沈黙の奥で、確かに息づいている――
“命の語”として。