星図を見つめるアマリの前に、
旅衣をまとった一人の青年が静かに立っていた。
名をユヅルという。
語を記録したことも、語られたこともない。
ただ、星の下で「何かが語られるのを待っていた者」。
彼の目は、記憶の底から浮かび上がってくるような、遠く静かな光を宿していた。
「あなたの描いた星図を見て……
胸の奥にずっとあった“名前のない痛み”が動いた気がしたんです」
◇
アマリは、祠の奥にユヅルを招いた。
彼が抱えていたのは、「記録にならなかった記憶」だった。
形を持たず、語にもならず、ただ息の奥に沈んでいた語の核。
「わたしの中にあるものは、語るには不確かすぎて、
記録にも値しないと思っていた。
でも、星を見たとき、それが“どこかにあった”と信じられた」
◇
アマリは天文図録を開き、星の揺らぎを視線でなぞった。
「語は、語られずとも存在します。
ただ……“座標”が定まらなければ、響くこともできない」
彼女は星の交点を示す図の中に、ユヅルの記憶の“反応”を探す。
その手法は、記録というよりも“共鳴”。
記録具を介さず、心と語の振動を擦り合わせて座標を測定する――
星降る記録者だけが使う、古の共鳴記法。
アマリの指先が静かに止まった。
ひとつの交点に、かすかな語の“根”が存在していた。
◇
「ここが……あなたの語の座標です。
星が触れた場所。誰にも記されなかったけれど、確かに残っていた痕跡」
ユヅルは、震える声で呟いた。
「あったんですね……ほんとうに。
“語られなかったわたし”が、ここに……」
その言葉に、星が瞬いた。
◇
夜が訪れ、アマリはその座標の上空にある星を記録した。
そこには既知の星図にない、淡い輝きがあった。
まるでユヅルの記憶が、
星の光を借りて今ここに“語ろうとしている”ようだった。
(語は、記憶と共鳴して、姿を変える)
アマリは、筆を取った。
だが文字を記すのではなく、
星の揺らぎとユヅルの呼吸を“波紋図”として石板に刻んだ。
それは読めない。
意味を持たない。
ただ、そこに“語られたことのない響き”があると示すだけの記録。
◇
翌朝、アマリはその石板を祠の観測棚に収めた。
タイトルも、注釈も、星名もない。
だがそこには、ユヅルの“生きた証”が、確かに宿っていた。
「わたしたちは、語ることで生きるのではない。
語を持てないままでも、星がそれを照らしてくれるなら――
それで、残すに値する」
ユヅルは深く礼を述べ、祠をあとにした。
彼の中にはもう、“語られなかったこと”の痛みではなく、
“語られずとも在った”という確信が灯っていた。
◇
その夜、アマリはひとり、こう記録した。
「語は、記録によって救われるのではない。
語が“語り手のなかで響く”こと。
それが、もっとも深い継承であり、もっとも静かな救済である」
星は、静かに瞬いていた。
語られぬ語がまたひとつ――
座標を得て、沈黙のなかに記されたのだった。