潮の渦の中心で光に包まれたナギサと青年の足元に、石の階段が静かに姿を現した。
その階段はまるで海の底へと続くように、深く、静かに、螺旋を描いていた。
「これは……“語の回廊”」と、青年が囁いた。
「かつて語り部たちが、自らの声を封じ、未来の語に託した場所。選ばれた者にしか見えないと聞いたことがある」
ナギサは階段に足を踏み入れた。
その瞬間、空気が変わる。音がなくなり、世界が水中に沈んだように静まりかえった。
壁には、無数の貝殻が埋め込まれていた。それぞれが微かな囁きを響かせ、足を進めるごとに、違う声が彼女の中に染み込んでくる。
――「名もなき語り部の記憶、ここに眠る」
――「我は語り継がれることなく消えし声」
――「それでも、誰かに届くことを信じていた」
ナギサは、胸に重なるように響くその声たちに、思わず立ち止まった。
「この場所は……忘れられた者たちの語が、今も息づいているのね」
青年もうなずいた。
「潮流の民が皆、語を継げたわけじゃない。語れず、消えた者たちの想いがここにある。
だが、君の語は……その声に耳を傾けられる」
螺旋の最奥には、扉があった。
それは海底の珊瑚でできており、貝殻と潮の紋様が絡み合いながら光を放っている。
ナギサは布袋から、小島で拾った貝を取り出した。
その欠片は、彼女の語と共鳴し、ほのかに音を立てて扉を開いた。
中は、まるで水面の中に立っているかのような空間だった。
床は透明な潮で覆われ、天井からは光球がゆっくりと降り注いでいた。
「ここは……?」
「語を継ぐ者が最後に訪れる、“記憶の祭壇”」
中央には、ひとつの石壇があり、その上に並ぶ六つの貝殻。
それぞれ違う模様を持ち、異なる響きを持っていた。
ナギサはひとつの貝に手を伸ばす。
指が触れた瞬間、世界が広がった。
――そこは遥か昔のユリノハマ。
語を司る巫女たちが、記憶の波を読み取り、民へと語を渡していた時代。
ひとりの巫女が、病に倒れながらも最後の力で語を貝に封じていた。
「どうか、私たちの記憶が……いつか、誰かの声になるように」
ナギサはその想いに応えるように、語を重ねる。
「わたしが、継ぎます」
すると他の貝殻も一斉に共鳴し、彼女の周囲に潮の花が咲くような光が満ちた。
青年がそっと語る。
「君の語は、もう君だけのものじゃない。
ここに眠るすべての声と繋がっている」
ナギサは、ひとつ深く息を吸った。
「語るわ。これからの時代のために。忘れられた声のすべてを――」
その声は、回廊全体に響きわたった。
天井の光が収束し、彼女の胸にひとつの模様が浮かび上がる。
それは、潮流の民の“語り手”としての紋章だった。
彼女は祭壇の中央に立ち、最後にもう一度、波に向かって語る。
「記憶は還る。語は繋がる。
たとえ声が失われても、誰かがそれを継ぐ。
今、ここに“語り継ぎの誓い”を――」
遠く、海の向こうから、かすかな返歌が届いた。
それは、ユリノハマの巫女たちが、未来に託した声だった。
ナギサは微笑む。
――声は、眠らない。
語は、絶えない。
そして、物語は続いていく。