霧深い夜、祠の裏手の森から風が吹いた。
それは今まで一度も吹き込んでこなかった“逆風”だった。
祠の風は、語を残す風。
しかしその夜、吹いたのは“語の起源を遡る風”――
語の根へと至る呼び声だった。
◇
サイシンは翌朝、山の長老から告げられた。
「そろそろ行く時だな。“語の根”へ」
語の根――それは、記録者の最奥に伝わる伝承であり、
記される前の“語の源泉”が今もなお地下に眠っているという。
「だが、そこに記録具は持ち込めぬ。
語が、まだ“語になる前の状態”で存在しているからな」
それは“沈黙よりも深い沈黙”の地。
記録者である以前に、“聴く者”としての器が試される場所だった。
◇
祠の裏から伸びる石段を辿り、
サイシンはひとり、山の底へと降りていった。
蝋燭の灯りだけが、暗い石壁を照らす。
数百年前の記録札が朽ちかけた状態で残されている。
やがて足元がぬかるむような柔らかさに変わったとき、
目の前に、ぽっかりと開いた石の空洞が現れた。
そこに風はなかった。
音も、振動も、すべてが止まっていた。
だが、サイシンの胸の内には確かに響きが広がっていた。
(これは……まだ“語になる前の想い”だ)
◇
彼は祠の記録具をすべて置き、素手で石に触れた。
冷たい。
けれど、その中に微かな温もりがあった。
語が、まだ「意味」になる前の状態――
想いも願いも怒りも喜びも、“言葉になる寸前”の粒子。
それらが、岩の奥で幾重にも層をなして眠っていた。
「……語は、はじめから語だったのではない。
語は、“語られたいという祈り”だった」
サイシンは思わず呟いた。
その声に、岩がかすかに鳴った。
◇
彼は、記すことをやめた。
代わりに、両手を岩に当てて、耳を澄ませる。
そしてその“祈りの振動”を、自身の胸に刻み込んだ。
語を記録するのではなく、
記録者が、語そのものを“身に宿す”という儀。
それは祠でも禁じられた、極めて個人的な“共鳴”の技法だった。
◇
数刻後、祠へ戻った彼は、真っ白な石札を取り出した。
何も刻まず、何も記さず、ただ石に手を当ててこう言った。
「語は、わたしの中にある。
記録される前に、響きとして息づいていた。
それを、いま、沈黙という形で渡す」
そしてその札を祠の最奥に納めた。
それは記録というより、預かりだった。
語ることも、書くこともせず、ただ“響きを未来に繋ぐ”ための石。
◇
老記録者がその札を見て言った。
「おまえは……語を記す者ではなく、“語を聴く器”になったのだな」
サイシンは頷いた。
「わたしはもう、語をただ記すのではなく、
語が“語となる前”の存在として、それを守る者になりたい」
老記録者は静かに目を閉じた。
「それができるならば、おまえは“沈黙を守る者”であり、
同時に、“語の根をつなぐ者”でもある」
◇
その夜、祠に初めて音のない“風”が通り抜けた。
誰にも聞こえないその風は、
記録されなかった語を、新たな語へと生まれ変わらせる予兆だった。
サイシンは静かに語札を握り、心の中でこう記した。
「語の根は、沈黙のなかにある。
語を語る前に、わたしはその沈黙を、
ただ、聴き続ける」