山の奥に、語ってはならぬ“祠”があった。
かつて、語の力が大地を裂き、谷を崩したとき、
一族の長が選んだのは――語を封じ、記すことだった。
それ以来、山祠の末裔たちは“語らずに記す”ことを使命としてきた。
サイシンもまた、その教えのもとに育った。
だが彼は今、石に眠る“封じられた語”に触れようとしていた。
◇
その日、彼は祠の地下に降りた。
そこには、石の箱がいくつも並んでいた。
すべての箱には、何の文字も記されていない。
だが、空気は重く、音は響かず、風さえ届かない。
(ここには……語がある。だが、語られていない)
サイシンはひとつの石箱の蓋に触れた。
途端に、胸の奥に低い振動が響く。
まるで、石の中から“声なき叫び”が滲み出すようだった。
「閉じられたまま、ここにいる」
◇
彼は語の記録具を取り出し、箱の側面に微細な線を刻み始めた。
それは、風の揺れや気圧の変化を記録するための古式技法。
記録とは、必ずしも文字ではない。
語が何を語ろうとしていたかの“気配”を刻むこともまた記録。
すると、石の中からさらに強い響きが届いた。
「語るな、封じろ――と、誰が決めた?」
それは、祠の奥深くに眠る“過去の語り手”の響き。
かつて、語を語ろうとして封じられた者の記憶だった。
◇
その夜、サイシンは夢を見る。
夢の中で、一人の青年が祠の前に立っていた。
白い衣、鋭い眼差し。
彼は誰よりも語の力を信じ、
“記すのではなく語ること”を選ぼうとした者。
「語は、ただ記されるためにあるのではない。
語とは、伝えることで命を得る」
だが、彼の語は危険と見なされ、石に封じられた。
それがこの祠の“最初の封印”だった。
◇
目覚めたサイシンは、かつての語り手の石箱に手を重ねた。
「わたしは、あなたを語ることはできない。
けれど、あなたが語ろうとした“響き”を、ここに記す」
彼は箱の周囲に五つの線を刻んだ。
それは音階でも文字でもない、風の流れを写す“記録の環”。
記録は語らず、ただ“語があった”ことを証明する。
そしてその時、箱の蓋に微かにひとつの文字が浮かび上がった。
「イオ」
それは、語り手だった青年の名。
封じられていた語が、ついに名を取り戻した瞬間だった。
◇
翌日、サイシンは師である老記録者に呼び出された。
「おまえ、地下の封印に触れたな」
老いた声は怒りに満ちてはいなかった。
むしろ、どこか懐かしさと恐れが入り混じっていた。
「記録とは、語の死ではない。
だが、記録が語を封じる“墓標”になることもある」
サイシンは黙って頷く。
「わたしは墓標ではなく、道標として記したい。
語がまた誰かに届くように。いつか、再び語られるそのときまで」
老記録者はしばらく目を閉じていたが、やがて静かに言った。
「ならば、記せ。“声なき語”の余白を」
◇
その夜、祠の風がわずかに鳴った。
語られなかった語が、
いま、“記録されながらも語られうる”可能性として息を吹き返した。
サイシンは石板の余白にこう刻んだ。
「ここに、語りたかった誰かがいる」
そしてその語は、記録され、
いつか誰かが語り継ぐための扉となった――。