風が、巡っていた。
それはもう、ただの空気の流れではなかった。
語を託された者が、語を響かせる。
語を響かせた者が、語を受け取る。
風は、語の輪だった。
◇
カラハは、静かな谷にいた。
旅の終わりが近いと、風が告げていた。
けれど、それは“止まる”という意味ではない。
風が輪となり、循環へと変わる合図。
彼は草の上に座り、風笛を膝に置いた。
目を閉じれば、これまで出会った語が響いてくる。
沈黙の中で語られた祈り。
潮の記憶を乗せた風。
語れなかった者の揺れ。
語を終え、燃やした者の選択。
名を持たぬ者に名を手渡した夜。
そして――
ユイの手の中で、語が芽吹いたあの瞬間。
(わたしは“語った”のではない。
ただ、“語が語られる場”を渡し続けてきたのだ)
それが、風渡りの者の本質だった。
◇
そのとき、風が谷に集まった。
それはどこからともなく、
過去に通り過ぎた地から、かつて語りかけた人々から、
新たに語り始めた誰かから。
カラハは驚いた。
風が、彼に向けて語っている。
「わたしは今、語れるようになったよ」
「あなたの語が、わたしを変えたんだ」
「ここで、小さな語の輪が生まれた」
「あなたの語は、もう遠くまで届いている」
それは“感謝”でも“証明”でもなかった。
ただ、風が響きを持ち、語として返ってきたことそのものが、
語り手としての旅の“実り”だった。
◇
その中に、一つだけ異質な声があった。
「なぜ、語を残さなかったのですか?」
声の主は、見知らぬ者だった。
カラハが目を開くと、谷の向こうに黒い衣をまとう人物が立っていた。
彼はリクツと名乗った。
星降る記録者の一人。
語を記録し、体系に編み込む役目を担う者。
「あなたは、語を記録せずに渡してしまった。
それでは“語の系譜”が追えない」
だがカラハは静かに首を振った。
「語は記録されるために語られるのではない。
語は“生きるために継がれる”ものだ。
それは記録ではなく、“響き”として巡る」
リクツは沈黙し、風に吹かれながらうなずいた。
「……それも、語の在り方か」
◇
その夜、カラハは最後の風笛を吹いた。
音は、これまでになく柔らかく、遠くまで届いた。
語を記した語札も、燃やした語の灰も、すべてを包むように。
「語は、語り手がいなくなっても、生き続ける。
なぜなら、語は風に乗り、
響く者に触れて、新たな語を芽吹かせるからだ」
カラハは笛を置き、最後の語札を土に埋めた。
そこに書かれていたのは――
「わたしの語は、風の輪のなかにある」
◇
朝になり、谷には誰もいなかった。
だが、風は確かに残っていた。
風のなかには、カラハの響きがあった。
語り草が揺れ、小鳥がさえずり、風見の塔に届く笛の残響。
ユイがいつかこの風を感じたとき、
きっとまた語の種は芽吹くだろう。
風は、終わらない。
語は、響きを継ぐ者のなかで、生まれ変わるのだから――。