風の中に、懐かしさがあった。
それは生まれた土地の匂いでも、かつて出会った語でもない。
けれど、胸の奥を微かに震わせる、柔らかな“記憶の音”だった。
カラハは北へ向かっていた。
山裾を辿るように伸びる古道を進むうち、
彼は一面に“語り草”が咲く丘に出た。
語り草――
花ではない。
言葉を持たぬまま風に揺れ、その動きで想いを語る植物。
風渡りの者の伝承によれば、
語り草は、名前を持たなかった者たちの記憶が宿る場所にのみ生えるという。
◇
丘の中心に、小さな祠があった。
祠には、風に刻まれた古い名が一つだけ残っていた。
「ノナ」
ただ、それだけ。由来も記録も残っていない。
だが風は、祠の周囲で優しく渦を巻き、そこに確かな“語の気配”を宿していた。
(ここには、語られなかった誰かがいた)
カラハは風笛を手に取り、祠の前に座った。
笛は音を立てず、風は静かに流れるだけ。
けれど、語り草たちは風に合わせて揺れ、その動きがまるで無言の語を編んでいるようだった。
◇
その夜、彼は夢を見た。
風のなか、少女がひとり立っていた。
顔は見えず、声もなかった。
だがその目だけが、カラハの方をじっと見つめていた。
(あなたは、語を持たないのか……?)
少女は、首を横に振った。
(では、語りたいと思ったことは?)
少女はゆっくりと、頷いた。
その瞬間、カラハの胸に風が吹き抜けた。
それは音にも言葉にもならない“衝動”――語られたかった想いの記憶。
彼は目覚め、すぐに語札を取り出して書き始めた。
それは誰の名も記さず、意味も持たない、
けれど確かに“語り草の揺れ”と同じリズムを持つ祈りの語だった。
「ここに、語れなかった語がある。
ここに、名を持たずして生きた者の記憶がある」
◇
数日後、祠を訪れる旅の者がいた。
風に導かれ、偶然ここへ辿り着いたという若い語り手。
名をセイラといった。
彼女は語り草の揺れに涙を浮かべた。
「……あの揺れは、わたしが幼い頃に聞いた、母の語に似てる。
けれど、その語は“語られていない”はずなのに」
カラハは彼女に祠の語を見せた。
セイラはそっと語り草の中に座り、小さく口を開いた。
「母は、風の民に拾われた子だった。
本当の名も、出自も、何も語らずに育てられた。
でも、彼女はよくこの“揺れ”を聞きながら、涙を流していた」
それは偶然ではなかった。
セイラの母が語らなかった語、語れなかった記憶。
それが、風の記憶となって、この地に語り草を咲かせた。
◇
カラハはひとつの提案をした。
「あなたが、母の名をここに記してほしい」
セイラは戸惑った。
「でも……母はその名を持たなかった。
わたしが“セイラ”と呼ぶようになっただけ」
「ならば、それが“語になるべき名”なんだ。
名前は語のはじまり。誰かに呼ばれることで、記憶は語へと昇る」
セイラは涙を拭い、小さな石にひと文字刻んだ。
「セイ」――母と、彼女自身の名を繋ぐ一節。
その石を祠に供えたとき、風がそっと吹き抜けた。
語り草たちが揺れ、その中心でひとつの花が開いた。
白く、小さなその花は、
“語を持たなかった者の語が目覚めた”証だった。
◇
カラハは、語札にこう記した。
「風は、名もない語を記憶していた。
わたしたちは、その揺れに耳を澄ませ、語り直すことができる」
語は、生まれるだけではなく、
誰かが“名付け直す”ことで、再び生を得る。
風はそれを知っている。
語り草の丘をあとにしながら、カラハは祠に深く頭を下げた。
語られなかった語が、
いま、新たな名を持って――風の中で語り始めていた。