東の空が白みはじめた頃、カラハは断崖の上に立っていた。
遥か下に広がる海が、陽を受けて波のうねりを見せている。
風が、海の匂いを運んでいた。
(この風は……語っている)
カラハは目を閉じた。
耳を澄ませると、潮の流れの奥から、断片的な“語”が届く。
「わたしの記憶を……拾って……」
「あの人の声を……誰かに伝えて……」
潮の声は、語を記憶として抱えたまま、繰り返しささやいていた。
それは、誰かが語れなかった過去。
そして、語られずに消えそうになっている想いの断片だった。
◇
崖を降りた先に、小さな入り江があった。
そこには一人の少女が座っていた。
青い髪に潮の花を編み込んだその子は、足元の貝を静かに撫でていた。
「きみは……潮流の民?」
少女はカラハの問いに頷いた。
「わたしはユルナ。語り部の末裔。
でも、もう語ることはないって決めたの」
その瞳は、深い水底のように静かだった。
「潮の記憶は、重すぎるの。
触れれば、沈んでいく。だから、誰にも伝えられないのよ」
◇
カラハは黙ってそばに座り、風笛を取り出した。
笛を吹くわけでもない。ただ手のひらに乗せたまま、海風にあてる。
すると、風が笛の中に入り、微かな音を響かせた。
それは潮と風が交わる場所で生まれた、名もない響き。
語ではなく、感情でもなく――“重なる願い”のような音。
ユルナが驚いたように顔を上げる。
「この音……懐かしい」
カラハは頷いた。
「これは、きみの中にある記憶の風。
語れなくても、風に触れることで、きみの想いが動き出した」
ユルナは貝殻をひとつ拾い、耳に当てる。
「この貝は、母が最後にくれたもの。
潮の語り手だった母は、海に消えた。
そのとき残された“語”が、ずっとわたしの中でさまよってるの」
◇
その夜、カラハはユルナとともに小さな焚き火を囲んだ。
炎のゆらぎに合わせて、彼は風笛をひと吹きした。
その音に、ユルナはかすかに“母の声”を思い出した。
「潮は流れる。記憶も流れる。
でも、語がそれを結びとめてくれるのよ――」
母の声が、風のなかで蘇る。
ユルナは、初めて涙を流しながら口を開いた。
「わたし……もう少しだけ、語ってもいい?」
それは、語り手としての“最初の一語”だった。
◇
翌朝、ユルナは潮の貝に小さな語の文を刻んだ。
それは母の記憶を伝える一節。
そして、語れなかった想いを“次に渡す”ための印。
「この貝を、次の風に乗せて」
カラハはその貝を手に取り、風の中へ投げた。
貝は風に乗り、海へと向かって舞い上がる。
それは、潮の記憶が“語”として昇華された証。
カラハは確信した。
(語は記憶になり、記憶は語となる。
風と潮は、語を循環させる二つの流れ)
◇
その夜、彼は小さな語の種を拾った。
海岸の砂の中で、潮と風が交差した場所に咲いた青い種子。
それは、ユルナの語が芽吹いた証だった。
語は、誰かの中で眠り、風に触れて目覚め、
やがて他者と共に響き合う――。
風渡りの者の旅は、また一つ新たな語を生んだ。