朝の空気は冷たく、乾いた風が草を揺らしていた。
カラハは足元の岩を蹴るように歩きながら、風の祠での出来事を思い返していた。
ナユの言葉は、胸の奥に残っている。
「風の語り手は、ひとりで完結しない。語は、誰かとの“響き合い”の中で生まれるのだから」
語は、自分のなかだけで閉じれば、ただの音にすぎない。
風のように流れても、誰かに触れなければ意味を持たない。
カラハは、その意味を少しずつ理解し始めていた。
◇
昼過ぎ、山道の分かれ目で、彼は一枚の羽を見つけた。
小さく、青みがかったその羽は、どこか涼やかな気配をまとっていた。
風渡りの者たちの持つ「風羽」とは違う――もっと、内側にしずかに響くもの。
(これは……境界の羽)
そう呟いた瞬間、カラハの背筋に風が通り抜けた。
それは誰の言葉でもないが、確かに“導くような語”を含んだ風だった。
境界の羽――語り手が“まだ語らぬ語”に出会う前にだけ拾うと言われる風の徴。
語を運ぶだけでなく、自分の語を編む者が最初に受け取る兆し。
カラハは羽をそっと懐にしまった。
(……誰かの語じゃない。これは、きっと“自分の語”を始める合図)
◇
その夜、カラハは焚き火を囲み、夢を見た。
夢の中で彼は白い谷に立ち、風の狭間に囲まれていた。
風の中には、言葉にならない声が渦を巻いていた。
「……伝えて……」「……聴いて……」「……名もない声を……」
それは、彼がこれまで拾ってきた語の“残響”だった。
誰にも受け止められず、風に乗ったまま消えていった想いたち。
かすかに見える子どもたちの影が、その風の中を彷徨っていた。
カラハは歩み寄り、手を伸ばした。
「……語りたい」
声が自分の胸からこぼれた。
誰かの語を運ぶのではなく、
その語を“祈りのように響かせたい”という気持ちが、初めて自分の内側に芽生えていた。
(わたしは語の運び手ではなく、“語の灯し手”になりたい)
その言葉に、風が震えた。
子どもたちの目に光が差し、空から小さな羽が舞い降りる。
◇
目覚めた彼の手には、再び青い羽が握られていた。
だが、前とは違い、羽の表面に小さな紋様が浮かんでいた。
それは風の古語で「ユナラ」――“語の種”。
語を繋ぐ者ではなく、語を芽吹かせる者にのみ授けられるしるしだった。
カラハはその羽を見つめながら、深く息を吐いた。
◇
風渡りの者として育った自分には、掟があった。
語るな。判断するな。運べ。響きを失うな。
だが今の彼には、それがただの“過去の束縛”に思えた。
旅は続く。
次の道は、森の外れ“潮流の民”の地。
カラハは地図を取り出し、東へと続く崖道を指差した。
潮の語、記憶の語、継承の語――
風ともっとも異なる語の民に出会うことは、恐れでもあり、確かに惹かれるものでもあった。
(風は境界を越える。ならば、語も越えていい)
◇
その日、風は一層澄んでいた。
語を孕んだ風が、彼の足元を包み、空へと昇っていった。
カラハは歩き出す。
境界の羽を胸に、まだ知らぬ語の旅へ――。