森に、秋の気配が漂いはじめていた。
葉はわずかに色づき、語の樹の枝先には熟しかけた“語の実”が揺れていた。
イリカは、語の祠の前に立っていた。
その背に、森の長老・リヒトの声が届く。
「語の力は、育ち始めている。
けれど、それを“育てる”には、語ることより先に――“聴く”ことを知らねばならぬ」
その言葉に導かれ、イリカは“沈黙の家”へ向かうこととなった。
そこは、かつて語を失った者たちが身を寄せる場。
語を放ったがゆえに、心を壊し、声を閉ざした者たち。
あるいは、語ること自体を禁じられ、静けさの中に生きる者たち。
イリカの中には、不安がなかったわけではない。
けれど今の彼女には、「語られぬもの」に耳を澄ます覚悟があった。
◇
“沈黙の家”は、森の奥にある石造りの建物だった。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
音が沈む。
感情さえも吸い込まれていくような、重たい静けさ。
その奥に、ひとりの老婆がいた。
背を丸め、目を閉じたまま、座している。
「あの方は……“シヲリ”さま。
かつて、もっとも深く“癒しの語”を奏でた者だ」
付き添いの守人がそう囁いた。
だが今、彼女は語を絶ち、沈黙の中にいる。
(この人にも……語があった。なのに、もう語らない)
イリカは、そっと老婆の前に膝をついた。
「語を……聴かせてほしいんです」
返事はない。
だが、その指先が、かすかに揺れた。
空気が震えた。
風が、木の葉をかすかに揺らすように。
イリカは、胸の奥から小さな“音”を紡いだ。
それは、母が子に語るような、土に染みる音。
意味ではなく、想いを包む“揺らぎ”だった。
その響きに、老婆の口元がかすかに動いた。
「……誰……?」
「イリカです。あなたの語を、受け止めにきました」
◇
しばらくして、老婆はぽつりと語り始めた。
「昔……わたしも、語っていた。
語が、誰かに届くと信じていた。
けれど、癒せなかった。救えなかった……あの子を……」
沈黙が震え、語がこぼれはじめる。
老婆の指が、床の石に何かをなぞる。
そこには、ひとつの名前が浮かび上がった。
「フユナ」――かつて、病に倒れた少女。
語を与えられながらも、その命を閉じた者。
「わたしの語は、あの子に届かなかった……」
イリカは、老婆の手をそっと包んだ。
「でも、今、届いています。
わたしに。そしてこの森に」
彼女は語った。
それは、フユナという名を揺らす、優しい風の語だった。
◇
その夜、イリカは“語り石”を立てた。
石の上には、フユナの名と、シヲリの記憶が刻まれた“癒しの葉”が添えられた。
語は記録されるものではない。
語り継がれるもの。
語は、誰かの沈黙を通して、新たな音となる。
イリカは深く息を吸い、そっと語った。
「わたしは、語ります。
あなたの語を。
そして、まだ声を持たない誰かのために」
風が枝を揺らし、葉がひとひら落ちた。
それはまるで、語が静かに“土へ還る”合図のようだった。
森は応えていた。
癒しの語を宿した、新たな語り手の誕生に――。