静かな雨が、森の奥に降っていた。
その土地は「語りの沈黙」と呼ばれていた。
風は枝葉に触れることを遠慮し、
苔むした大地はすべての音を包み隠すように吸い込んでいた。
その中心に、ひとつの古びた祠がある。
人の気配はなく、ただ“語られぬ記憶”だけが残っていた。
祠の前にひとりの少女がいた。
名はイリカ。
深林の血族に連なる者。
“癒しの語”を宿す一族の末裔だった。
けれど、彼女にはまだ語る力はない。
否――正しくは「語ってはならない」と教えられてきた。
「癒しの語は、他者の痛みに触れすぎる。だから、軽々しく使ってはならぬ」
それがこの森に伝わる古き掟だった。
イリカは声を閉じたまま育ち、
語を持たぬ者として、祠の奥に仕える役目を与えられていた。
◇
ある夜、彼女は夢を見る。
そこには、声を失った者たちがいた。
叫びも、涙も、音にならず、ただ森の奥に立ち尽くしていた。
その中心で、一本の古木が揺れていた。
それは“語の樹”と呼ばれる、癒しの語り手だけが見ることを許された木だった。
イリカがその樹に手を伸ばすと、夢の中なのに、確かな感触があった。
そして、胸の奥に届くような囁きが響いた。
「……語って……くれますか……」
目覚めた彼女の手には、小さな木の実が握られていた。
それは、森の奥“ミトノ林”にだけ実るとされる記憶の種子だった。
(呼ばれた……)
確信を得た彼女は、はじめて禁域へと足を踏み入れる決意をした。
◇
祠の奥の隠し扉を開き、静寂の通路を進む。
そこには、時間の止まったような空気が満ちていた。
そして、夢で見た古木――“語の樹”が現れる。
近づくと、彼女の手の中で記憶の種子が微かに光を放つ。
「……わたしの中に……声を、植えて……」
語られぬはずの木が、直接胸に響くように語りかけてきた。
イリカは口を開いた。
それは、言葉ではなかった。
痛みを抱くような、祈りのような、やわらかな音だった。
その瞬間、古木の幹に光の筋が走る。
森の中に眠っていた語たちが、かすかに目を覚ます。
けれど、地の底から黒い靄が立ち上がった。
「沈黙の呪音」――語られぬまま滞った想念が、彼女の語を封じようとする。
「黙れ。語るな。癒しなど、届かぬ」
イリカは一瞬、身を引きかける。
だが、その靄の奥に、声を閉じてなお語ろうとした者たちの姿が浮かぶ。
彼女は再び、声を発した。
その語は、靄を裂き、風となり、森に吹き抜けた。
足元に草が芽吹く。
語の樹が、枝を震わせる。
その枝先に、ひとつの語の実が実り始めた。
(これが……わたしの語)
祠に戻ったイリカを、森の長老は無言で迎えた。
しばらくの沈黙ののち、ただ一言。
「おまえは、“語りの森”に入った。もう、戻ることはできぬぞ」
イリカは小さく、しかし確かに頷いた。
「戻りません。わたしは、語ります」
その声は小さな響きだったが、
森に封じられていた“沈黙”を、確かにほどき始めていた。
語は、今――癒しの森で芽吹こうとしていた。