風の向きが変わったのは、夜明けのことだった。
祠の前に立つナギサの髪が、潮風に乗ってゆるやかに舞う。
その風には、かすかに未知の気配が混ざっていた。
老女は、静かに告げる。
「潮の声が変わった。次の“記憶”が君を呼んでいる」
それは、潮紋の間での日々に一区切りが訪れたことを意味していた。
ナギサは、自らの語を刻む者として、次なる地へ向かう時を迎えたのだ。
「その先に何があるの?」
老女は目を閉じて答える。
「“ナギの岬”――そこには、声なき語が眠っている」
数日後、ナギサはシオクラの島を離れ、小舟で潮の路を南へと辿っていた。
波は穏やかで、風もまた優しく背を押す。
旅の道中、彼女はたびたび耳にさざ波のような囁きを感じていた。
それは、語が導く方向を告げる“潮の呼び声”だった。
やがて、霧に包まれた岬が姿を現す。
ナギの岬。
かつて語り手たちが「最後の声」を置いていったとされる場所。
そこには、語を文字にも音にもできずに終わった想いが眠るという。
岬に上陸したナギサは、深く息を吸い込んだ。
空気には重たさがあった。
だが、それは恐怖ではなく、無数の“語りきれなかった想い”の気配だった。
「ここに、橋をかける」
彼女はそうつぶやき、岬の奥へと進んだ。
道なき斜面を越えると、忽然と現れる平地があった。
そこには、大小無数の貝殻が円を描くように並べられていた。
それぞれの貝は微かに光り、音にならぬ声を蓄えているようだった。
中央に立つと、足元の貝殻がふいに振動した。
すると、耳の奥に直接響くような音が生まれる。
――「……だれか……きいて……」
それは、明確な言葉にならない“声の残響”だった。
だが、ナギサにははっきりと感じ取れた。
「わたしが、聴くよ」
そう告げた瞬間、貝殻たちが共鳴を始め、岬全体に静かな歌が流れ出す。
その旋律は、まるで忘れられた想いたちがつなぎ合う“記憶の織物”だった。
ナギサは膝をつき、そっと祈るように貝殻へと手を伸ばす。
心のなかで語りかけ、名もなき声に形を与える。
「風に消えた想いも、ここにある限り消えない」
祈りが終わると、中央の貝がひときわ強く輝き、小さな潮紋が浮かび上がる。
それは、“名もなき者たちの語”を意味する古い紋だった。
その瞬間、ナギサの語が震える。
彼女の中に、新たな記憶が流れ込んできた。
――船を失った旅人の後悔
――帰らなかった者の祈り
――愛する人に届かなかった言葉
すべてが、“語になれなかった想い”だった。
ナギサは深くうなずき、石板を取り出す。
潮の書庫で手に入れた、まだ空白の記録板だ。
貝殻から響いた音を心に刻みながら、ゆっくりと筆を走らせる。
紋は、彼女の語と混じり合いながら、静かに形を成していく。
日が暮れかける頃、ナギサは語り終えた。
貝殻たちは静かに眠りにつき、岬に再び沈黙が戻る。
だが、その沈黙は“孤独”ではなく、“祈り”に満ちたものだった。
「語は……聞かれたとき、ようやく生きる」
ナギサの目に光が宿る。
彼女は立ち上がり、石板を胸に抱いて言った。
「これで、あなたたちも記録の中で生き続ける。
誰にも聞かれなかった声も、今、語になった」
岬の風が優しく吹き抜け、ナギサの背を押す。
彼女は再び、海へと向かう舟へ歩き出した。
語を継ぐ者から、語を生む者へ。
新たな語り部の旅は、静かに続いていく――