翌朝、ナギサは光の消えた浜辺に立っていた。
夜空に浮かんだ島影の記憶はまだ鮮やかに残っている。
彼女の足元には、小さな潮溜まりができており、その中心に一つの貝殻が置かれていた。
「これは……“舟貝”……」
舟貝とは、潮流の民にとって旅立ちの印とされる貝。
古より、語を継ぐ者が新たな地へ渡るとき、必ずこの貝を携えていたという。
その模様は微細な波紋を刻んでおり、中心には小さな渦巻きが刻まれていた。
それはまるで、すべての記憶が一つの点から生まれ、またそこへ還ることを象徴しているようだった。
そっとそれを拾い上げると、耳の奥に懐かしい歌声が響いた。
――潮を越え、語を繋げ。
ナギサは頷いた。
すべては、シオクラへ渡るための導きだったのだ。
準備を整え、再び小舟を出す。
今度は満ち潮に乗り、夜明け前の海へと漕ぎ出していった。
空はわずかに赤みを帯び、東から新たな光が昇り始めていた。
水面には金色の道が描かれ、彼女の舟を導くように延びていた。
幾度か波に煽られながらも、ナギサの舵取りは迷いがなかった。
掌に残る語の震え、耳に届くさざ波の囁き、胸に満ちる潮の記憶。
それらすべてが、確かな羅針盤となっていた。
やがて霧が深くなり、視界はほとんど白一色に覆われた。
それでも彼女の耳は、確かに“語の波”を捉えていた。
「……この向こうに、記録の地がある」
ナギサは声に出して呟いた。
言葉が霧の中に溶け、反響のように小さく戻ってくる。
その音さえも、語としての命を宿しているようだった。
霧の向こうから、ひとすじの風が吹いた。
潮の香りとともに、音なき声が届く。
――来たれ、記録の継ぎ手よ。
その声に応えるように、霧が割れた。
一筋の光が水面を裂き、その先に現れたのは、小高い丘を擁する静かな島。
そこには、祠のような建物が点在しており、潮の気配と共に語の気が満ちていた。
木々は低く、風にそよぐ音が不思議な旋律を紡いでいた。
舟を降りたナギサを、ひとりの老いた女性が出迎える。
白い衣、海風に揺れる薄青の帯。
その姿は、かつて幻のように現れた老女と瓜二つだった。
「待っていたよ。潮の語を継ぐ者」
女性の声は深く、潮の音と共鳴していた。
ナギサは深く頭を下げ、貝殻を差し出す。
「“語を記す者”として、学びに来ました」
老女は微笑み、頷いた。
「ここは“記憶のしおり”。潮刻みの始まりの地。
過去と未来を結ぶ、語の礎となる場所だ」
彼女に導かれ、ナギサは島の奥へと足を進めた。
道の両脇には、風化した石碑や波模様の刻まれた岩が並ぶ。
それぞれが、かつてここを訪れた潮流の民たちの記録であった。
「語は波のように、受け継がれてゆく。
誰かが記し、誰かが読む。その繰り返しが、わたしたちの歴史だよ」
老女の言葉に、ナギサは静かに頷いた。
胸の奥で、あたたかな語がまた一つ芽吹くのを感じた。
記憶と語が交差する地――シオクラ。
その扉が、いま静かに開かれようとしていた。