ナギサが旅に出た朝、潮の村の空は曇っていた。
だが、その曇り空は不安ではなく、どこか穏やかな幕開けを思わせた。
村の外れにある舟着き場で、彼女は一人、小舟に乗り込む。
荷は最小限、水と干し魚、貝殻の入った布袋。
「ユリノハマ……本当に、あるのかな」
そう呟いた声に、海は静かに応じた。
まるで、記憶の浜がどこかで彼女を待っているとでも言うかのように。
潮流の民が語り継ぐ伝承によれば、ユリノハマはかつて“語”の源が溢れていた場所だったという。
そこでは、潮が記憶を運び、貝殻が言葉を抱き、人がそれを聴いて未来を編んだ。
だが、幾世代か前にその浜は「忘却の波」に呑まれ、民からその在処は失われていた。
「私は……波を越えられるだろうか」
ナギサは、小さな帆を上げて舵を取った。
潮風が彼女の髪を撫でる。
波の流れに逆らわず、導かれるように舟は南東へ進んでいった。
数日後、海の色が変わり始めた。
濃い碧が、柔らかい青へと溶けてゆく。
その変化をナギサの語は敏感に感じ取り、彼女の耳にさざ波のような囁きを届けた。
「ここではない……もっと、深く……」
その声は、自分の中に確かに存在する“語”の導きだった。
夜、舟を岸辺に寄せて休んでいると、一人の老女が浜辺に立っていた。
白い布を頭に巻き、深い青の衣をまとっている。
「お前の語、聞かせておくれ」
老女はそう言って、ナギサの手に触れた。
その瞬間、ナギサの語が震えた。
彼女の中の記憶が、波のように蘇る。
――幼い頃、祖母が口ずさんだ子守唄。
――初めて貝殻に触れた日の潮騒。
それは、自分という存在の記憶の断片だった。
老女は目を細め、微笑んだ。
「よい語を持っている。
それは遠い波の向こうにいた誰かの声でもある」
そして、ナギサに貝の欠片を手渡した。
「ユリノハマへ向かうなら、この貝を持ってお行き。
それは“門の音”を開く鍵だから」
ナギサは深く頭を下げ、老女に礼を告げた。
だが顔を上げたときには、老女の姿はもうどこにもなかった。
ただ、潮風に混じって「還る」という声が微かに響いていた。
ナギサは舟に戻ると、貝の欠片を胸に抱き、空を見上げた。
雲の隙間から、月がひとすじの光を海に落としていた。
「ユリノハマ……きっと、辿り着く」
その決意は、風を帆に宿し、舟を前へと押し出す力となった。
波は静かにさざめき、彼女の語と共に、失われた記憶の岸辺へと近づいていく。
翌朝、海霧の立ちこめるなか、ナギサは異変に気づく。
海の音が、昨日までとは明らかに違っていたのだ。
寄せる波が、まるで何かを告げるように、三度、四度と同じ拍で彼女の舟を打つ。
「……合図?」
彼女は帆を畳み、櫂を手に取り波の方向へ舟を向ける。
やがて、霧の向こうに浮かび上がったのは、無人の小島だった。
岩と砂の入り混じる浜には、どこか懐かしさを感じる輪郭があった。
舟を降りて歩み寄ると、波打ち際にひとつだけ転がる貝が目に入る。
拾い上げると、それは彼女が幼い日に失くしたはずの貝殻と、同じ模様を持っていた。
「……記憶は、すべて失われたわけじゃない」
その言葉と共に、ナギサの中で語がまた一つ形を成した。
貝を耳に当てる。
すると、風とも波とも違う囁きが、確かに響いた。
――還りし者よ、記憶の門をくぐる時が来た。
ナギサは目を閉じた。
その声に応えるように、島の奥から微かな潮の歌が聴こえてきた。
それは、語を継ぐ者だけが聴くことを許されるという、ユリノハマの歌だった。