ミヤノ森を出たアカネは、南東へ向かう古道をたどっていた。
火種石は淡く輝き、風標は時おり鈴のような音を鳴らして揺れていた。
昼は蝉の声が谷に響き、夜は虫の音が足元を満たす。
だがその日は、不思議なほど静かだった。
「……風が止んでいる」
アカネは立ち止まり、周囲を見渡した。
草も木々も動かず、空には雲が重く垂れていた。
風の流れが失われたような感覚。
火もまた、芯を残して揺れなくなっていた。
その夜、彼女は小さな廃寺の軒先で野宿することにした。
廃れた石段と傾いた鐘楼、祠にはかつての神がいた気配がわずかに残っている。
「ここにも語が……眠ってるの?」
彼女が火を灯そうとしたそのときだった。
「……火を灯すな」
背後から低い声が響いた。
振り返ると、月明かりに照らされた白衣の男が立っていた。
その顔は仮面で覆われ、目元だけが鋭く光っていた。
「語はここでは目覚めてはならぬ」
「あなたは……誰?」
「この地を守る“封の者”。語の暴走を防ぐ者だ」
アカネは警戒しながらも、語がわずかに震えるのを感じ取った。
この男もまた、語に触れている者だ。
「語が暴走するなんて、どういう意味?」
男は静かに近づき、廃寺の中心にある石畳を指差した。
「かつてこの地では、“月の語”と呼ばれる系譜が存在していた。語は夜に膨張し、人の記憶と結びついて幻を生んだ」
アカネは初めて聞く語の名に息を呑んだ。
「……その語は、もうないの?」
「封じられた。しかし、完全には消せなかった」
男は衣の袖から月紋の護符を取り出し、火の傍に置いた。
「君が灯そうとしている火は、かつての語を目覚めさせる火だ。だが、選択の余地はある」
アカネは迷った。火を灯せば、封じられた語と向き合うことになる。
だが、語が眠ったままであっていいのだろうか。
彼女は火種石を両手で包み込み、そっと問いかけた。
「火よ、風よ。あなたたちは……この語を起こしたいと思っている?」
答えは、焔の芯がひときわ赤く輝いたことで示された。
「……私は、語を拒まない」
そう言って、アカネは小さな火を灯した。
すると、石畳が淡く青白く光り、仮面の男の目が見開かれた。
「まさか……こんなにも純粋な語が……」
火が語りはじめた。
それはかつての月の語だった。
哀しみと癒やし、夢と記憶が織りなす、静かな夜の調べ。
廃寺の空気がふたたび流れ始めた。
仮面の男は静かに頭を下げた。
「君が選んだのだな。では、その語を“新たに継ぐ者”として認めよう」
アカネは月紋の護符を受け取り、火にかざした。
語が揺らぎ、月光とともに彼女の中に刻まれた。
その夜、風が戻り、火が穏やかに揺れた。
語の地図に、もう一つの“忘れられた語”が加わった。
アカネの旅は、次第に“継承”から“発見”へと変わりつつあった。