春の訪れとともに、山は新緑の気配を帯びていた。
だがアカネが通う火の祠だけは、季節の移ろいに無関心であるかのように、ひんやりとした静けさを保っていた。
その日、アカネは小さな瓶を手に祠を訪れていた。瓶の中には、祖母から譲り受けた香油が入っていた。火の神に捧げる香として、かつて巫母たちが使っていたものだという。
彼女は祠の前で座し、瓶の蓋を開けると、石の香炉に数滴を垂らした。
ふわりと立ちのぼる香煙。
その香りはどこか懐かしく、遠い記憶の底をくすぐるようだった。
火を灯す。
祠の石の裂け目に溜まった乾いた枝葉が、ぱちりと音を立てて燃え始める。
その瞬間、アカネの耳元で、かすかな囁きがした。
「帰れ、還れ、語の源へ」
声の主はなかった。
だが確かに語が、火の中に宿っていた。
アカネは身を固くした。
何かが起こる——直感がそう告げていた。
炎が揺らぎ、祠の奥の石碑にうっすらと光が反射した。
その光が、碑文のうち、これまで読み取れなかった部分を浮かび上がらせた。
『カグツチノ火、封ぜられし時より、選ばれし者に語を宿す』
それは、失われた伝承の一節だった。
「語を……宿す……」
アカネの胸に、鼓動とは違う脈動が走った。
それは彼女の中の“火”が、目覚め始めている証のようだった。
すると、祠の奥からかすかな気配がした。
誰か、いや、何かが近づいてくる。
姿はなかった。けれど確かに、炎がそれに反応していた。
炎は風もないのに左右に揺れ、やがてまっすぐに祠の奥を指し示した。
その先には、石の階段があった。
これまで気づかなかった隠し通路。
祠の床に沿って、半ば崩れかけた古の階段が闇の底へと続いていた。
アカネはひとつ息を飲み、火を灯したままの松明を手に取ると、そっと足を踏み出した。
石の階段は湿っており、足を滑らせぬよう慎重に降りていく。
途中、壁面には朽ちた壁画が見えた。
赤褐色の線で描かれた火の神とされる存在。その目はアカネを見返しているようで、彼女は思わず息をのんだ。
「これは……語りの神……?」
かすかに壁画のそばから音がした。
囁きのような声がまた聞こえた。
今度はより近く、より明瞭に——
「深く潜れ、語の核へ」
胸の奥に、熱が宿る。
それは恐れではなく、どこか懐かしい感覚だった。
階段を下りきった先には、低く天井の垂れ下がった小さな石室が広がっていた。
その中央に、火の灯る祭壇があった。
周囲を囲む石壁には、びっしりと古代文字が刻まれており、ところどころが煤け、読めないほどに風化していた。
アカネはそっと近づき、祭壇の前に跪いた。
火の明かりが、彼女の影を背後の壁に揺らめかせた。
そして、また囁きが届いた。
今度は明確に、言葉として心に刻まれた。
「継ぎ手よ、焔に刻め。おまえの語を、この大地に」
アカネは頷いた。恐れも疑いもなかった。
それは、ずっと前から知っていた使命のように、身体の奥深くから湧きあがってきた。
火の中に眠る、記されぬ神話の囁きが——今、目を覚まし始めていた。