アカネがツギノ村を出て三日後の夕刻、濃い霧が森に沈んでいた。
火種石は静かに揺れ、風標が小さく音を立てていた。
彼女は、谷に沿ったなだらかな小道を歩き、薄明かりの向こうにぼんやりとした人影を見つける。
「……旅の方ですか?」
声をかけてきたのは、まだ十代の終わりほどの青年だった。
彼は背負っていた竹筒を下ろし、丁寧に礼をする。
「ぼくはソウマ。この先にある“ミヤノ森”の見習い記録士です」
記録士——それは語を聴き、記し、次代へ継ぐ者たちのこと。
アカネは風標と火種石を見せた。
ソウマは目を丸くし、息をのんだ。
「まさか……それは、焔の守人の証……」
「語を運んでいます。火の語と、風の語を」
「どうか、森へお越しください。語の泉に導いてください」
そうして、アカネはミヤノ森と呼ばれる静謐な林に招かれた。
その森では、風の流れが緩やかに枝を撫で、鳥の声もまるで語りかけるように静かだった。
森の中心には“響きの泉”と呼ばれる場所があった。
そこには巨大な石の洞があり、その内部に響く声だけを記録する“共鳴石”が眠っているという。
「語の泉には、代々の記録士たちの声が封じられているんです」
ソウマは洞へと案内しながら語った。
「でも最近、声が弱くなってきていて……次の語が届いていないんです」
アカネは泉の縁に火を灯した。
焔は静かに舞い、風標がその周囲をくるりと旋回した。
次の瞬間、洞の奥からわずかに反響が生まれた。
それは誰かの歌のような声、祈りのような詩、そして過ぎ去った時の語りだった。
アカネは火種石を泉の中心に捧げる。
「この火と風に、新たな語を灯します。私ではなく、語そのものが選んだ響きを」
そして、彼女はツギノ村でもらった小箱を開いた。
子どもたちが描いた花、鳥、涙。
それらを一つひとつ泉の縁に並べる。
語が動いた。
焔が立ち、風が巡り、泉の水面に紋様が浮かび上がる。
ソウマは息をのんだ。
「……共鳴してる……こんなに澄んだ音、初めてだ……」
響きの石が微かに光り、洞の壁に過去の語が呼び起こされた。
その声たちはアカネが持ち込んだ語の断片と交わり、新たな旋律となって語を紡ぎ出した。
語は、織られた。
火と風、形と音、記憶と想い。
すべてが一つの“物語”に向かって結ばれていく。
夜更け、アカネは焚火を囲む小さな集会に呼ばれた。
記録士たちが各地の語を朗読し、アカネもまた、新たに響いた語の一節を語った。
それは、誰かの母が子に遺した詩だった。
「風がやむ日も、焔が消える夜も、語は胸に灯る」
ソウマがぽつりと呟いた。
「これを……後世に残します。あなたの語としてではなく、語そのものとして」
アカネはうなずいた。
語は誰かのものでありながら、誰のものでもない。
その夜、風が森を巡り、火が穏やかに燃え続けるなか、ミヤノ森に新たな語が刻まれた。
旅の途中で交わされた断片たちが、こうしてまた一つの物語として継承されていく。
アカネの旅は続く。
次なる語の地へと、火と風とともに。