風標を手に、アカネは西の丘を下った。
その手に握られた風の護符は、軽やかな風を集めるように布を揺らし、彼女の歩を導いているようだった。
道は細く、時に獣道のように森の中へと分け入り、また時に開けた谷間へと出る。
そのたびに、語が風に混じって囁く。
それは単語でも言葉でもない。情景の断片、感情のきらめき、そして誰かの記憶の音。
アカネはそれらをすべて火種石に受け止めるように、静かに胸に刻んでいった。
三日目の夜、彼女は小さな集落にたどり着いた。
川沿いに建てられたその村は、木と藁で編まれた家々が並び、薄い霧の中に溶け込んでいるように静かだった。
だが、村の中央にある大きな石碑の前で、子どもたちが一人の老女を囲んでいた。
「むかしむかし、この地には言葉を持たぬ民がいたのよ……」
老女の語りに、子どもたちは目を輝かせて聞き入っていた。
アカネは近づき、老女に軽く頭を下げた。
「旅の者です。語を探しています」
老女は少し驚いたような顔をし、しばらくアカネを見つめたあと、微笑んだ。
「では、お入りなさい。あなたの語も、ここでは“語の断片”として大切にされます」
そうしてアカネは“ツギノ村”と呼ばれるその地に迎え入れられた。
村の人々は日々、語の断片を集め、布に刺繍し、器に刻み、歌にして残していた。
「完全な物語を語れる者はいない。けれど、誰もが何かしらの“語のかけら”を持っている」
老女はそう言いながら、古い木箱を開いた。
中にはさまざまな布片や彫り物が収められていた。
「これは誰かの夢。これはある子の涙。これは、とある日の風景」
アカネはその一つひとつに触れながら、語が形を持って残されることに驚いた。
「火の語も、風の語も、目に見えない。でもここでは、それらが人の手で形になって残っている」
その夜、村の広場で“語の夜”と呼ばれる集いが開かれた。
人々は火を囲み、持ち寄った語の断片を語り合う。
誰かが失った母の子守唄を口ずさみ、誰かが壊れた器の文様に託された願いを語った。
アカネは火を灯し、風標を掲げて語った。
「これは、火と風が出会った証です。焔の語は風に乗り、今ここへ届きました」
村人たちは静かにそれを受け入れた。
誰もが語の正しさや由来を問うことなく、ただ“そこにあるもの”として聴いた。
夜が深まり、語の灯が揺れる中、アカネはひとり、火のそばに座った。
火種石がわずかに赤く輝いた。
語が語りかける。
「語は“かたち”を求めている」
その言葉に、彼女の中で何かがほどけた。
自分が求めていたのは語そのものではなく、それを通して人が何を感じ、何を残すかだった。
翌朝、村を発つアカネに、老女は一つの小箱を手渡した。
中には、村の子どもたちが描いた小さな語の断片たち——花の絵、笑った顔、泣いた顔、空に舞う鳥。
「あなたがまた新しい地に行ったら、この子たちの語をそこに運んで。語は風のように旅をするものだから」
アカネは小箱を抱きしめ、深く礼を述べた。
そして再び歩き出す。
焔の火は揺らめき、風は背を押し、地には断片が満ちていた。
語の旅は、まだ始まったばかりだった。