翌朝、アカネは祠の前に静かに立っていた。
山の空気は湿り気を帯びており、葉の表面を滑る風が、まるで旅立ちを促すように彼女の頬を撫でていく。
「西の風を追え」——それは火の語が告げた、初めての“地”に関わる指示だった。
「行ってみたいのか?」
ユウが後ろから声をかけた。
アカネはうなずいた。
「うん。でも……この火を置いていくのが、少し怖い」
ユウは祠に目をやった。
「でもさ、語は止まらない。たとえ火が消えても、心に灯ってる限り、それは“消えない”ってことなんじゃない?」
その言葉にアカネは少しだけ笑った。
翌日、彼女は旅支度を整えた。
といっても、祠の奥に眠っていた古い旅衣と、祖母の代から伝わる護符、そして祠の火を分けた“火種石”——小さな黒曜石の欠片だけ。
それを腰に結び、アカネは西を目指して山を降りた。
初めての外の世界は、思っていたよりも静かだった。
鳥の声、川のせせらぎ、人の気配はない。
それでも語が静かに囁く。
——この道は、かつて語り部たちが通った道。
山道はやがて、開けた丘へと続いた。
風が吹いていた。
布がたなびくように、草が揺れる。
その風の中に、確かに語が混じっていた。
「ようこそ。焔の継ぎ手」
声は聞こえたが、姿は見えなかった。
だがその瞬間、草原の向こうに風車のようなものが見えた。
それは人の手で編まれた無数の小さな“風標”で、一本の道を導くように立ち並んでいた。
「風の語り部……」
アカネは、祠で見た夢を思い出していた。
布を纏い、風と対話する人々。
語を音に、音を形に、形を気配に——そうして心を交わす民族。
彼女は風標の道を進んだ。
やがて、岩の上に腰掛ける少女の姿があった。
灰色の衣、首には貝の飾り。
「焔の巫子?」
少女は先に口を開いた。
「語が風に載ってきた。あなたの火が、呼んでるって」
アカネはうなずいた。
「火が言ったの。“西の風を追え”って」
少女はにっこり笑った。
「なら、ようこそ。“ハナツチ”の地へ。ここは風を結ぶ者たちが集う場所」
ハナツチ——それは古い言葉で“音を播く地”を意味するという。
アカネは風の地の中心へと導かれた。
そこには円形の広場があり、中央に大きな“風の石”と呼ばれる白い石柱が立っていた。
風の語り部たちはその周囲に座し、笛、太鼓、鈴などさまざまな音を使って語を交わしていた。
「言葉にしないことで、伝わるものがある」
風の巫子の長老が語った。
「音も風も、火と同じく、語の器。違いはあれど、根は一つ」
アカネは火種石を取り出し、風の石の前で小さく焚火を灯した。
その瞬間、風と火が共鳴した。
石柱の頂に刻まれた文様が淡く光り、火がゆらめき、風が渦を巻いた。
語が生まれた。
それは声でも音でもない、ただ“伝わるもの”だった。
風の巫子たちは驚き、そして静かに頷いた。
「……焔の語が、風に届いた」
アカネは初めて知った。
語は語り手を離れてもなお、生き続ける。
そして異なる語同士が響き合うとき、新たな物語が生まれるのだ。
夜、焚火を囲んでアカネは語った。
ユウとのこと、祠のこと、語との出会い。
風の巫子たちは言葉を返さず、ただ風に音をのせて応えた。
笛の音が、鳥の羽ばたきのように、夜空へ溶けていった。
アカネは深く息を吸った。
風は広く、火は深い。
その交差点に、自分は立っているのだと。
翌朝、風の巫子の一人が、アカネに小さな風標を手渡した。
「これがあなたの風。持ち歩けば、あなたの語がまた風に乗る」
アカネは深く頭を下げ、火と風の語を胸に抱いて、再び旅立った。
——まだ見ぬ語を探す旅は、ここから始まる。