それは春と夏の境、湿った空気が山を包み始めた頃だった。
アカネが祠に火を灯していると、ユウがいつものようにやってきた。
だがその日は、笛でも木片でもなく、一枚の古びた布を手にしていた。
「山の麓で拾ったんだ。誰かの荷から落ちたのかもしれない」
布には不思議な文様が織り込まれていた。
炎のようでもあり、風の流れのようでもある。
アカネはじっとそれを見つめ、語が騒ぐのを感じた。
「この模様……見たことがある。夢の中で」
ユウは驚いたように目を見開いた。
「夢に?」
アカネはうなずいた。
「火の中で見た。風の語り部たちが纏っていた布。それと、そっくり」
それを聞いたユウは、少しの沈黙ののちに語り始めた。
「僕の母さん、昔、旅をしてたって言ってた。風の里って場所があるって。言葉よりも風を読む人たちがいて……そこでは、音や気配で会話するんだって」
アカネは興味をそそられた。
火の語が動き、人の心を開いた。
ならば、風の語はどんな道を示すのだろうか。
「風の語り部たちは、まだこの大地にいるの?」
「わからない。でも……風は常にどこかから吹いてくる。語を運んでるのかもしれない」
その言葉に、火の焔がぱちりと弾けた。
まるで共鳴しているかのように。
その日以降、アカネの夢にはたびたび風が現れるようになった。
炎の中に吹き込む風。
語が焔のかなたで舞い、音のような囁きとなって彼女の心に触れてくる。
ユウは言った。
「火が根を張るなら、風は種を運ぶ。語も、同じなんだと思う」
アカネは祠の裏にある石の台に、拾った布を丁寧に敷き、祈るように火を灯した。
その火は、まるで布の記憶を辿るように、静かに揺れていた。
やがて火の周囲に風が流れ込んだ。
微かなそよぎが、言葉のように肌を撫でた。
そのとき、語が告げた。
「西の風を追え。焔の語を結ぶ者たちが、そこにいる」
アカネは息をのんだ。
火の語が、風と結び始めていた。
それは単なる啓示ではなかった。
世界が、彼女の中に広がり始めた証だった。
ユウは言った。
「もし、誰かが別の場所で同じように語を灯していたとしたら、きっと会える。語を通して」
アカネは微笑んだ。
焔だけでは届かない声がある。
風だけでは灯せない想いもある。
それぞれの語は、孤立しているようでいて、実は同じ源に繋がっているのかもしれない。
その晩、アカネは火と風の語を綴るために、新しい火を灯した。
火は高く、風は軽やかに、夜空へと舞い上がっていった。
こうして、焔の守人は初めて、大地の外に語を放ったのだった。