それから幾夜が過ぎた。
アカネは毎日、祠の火を灯し続けていた。誰に見せるでもなく、誰に語るでもなく、ただそこに焔を宿し、語の声に耳を澄ます。
山は季節の深まりとともに緑を濃くし、やがて祠の前にも草が伸び始めた。
だが不思議と、祠の周囲だけは草木が一定の距離で止まり、火に触れぬよう遠巻きにしているかのようだった。
ある日、山道を登ってきた少年がいた。
彼の名はユウ。村の端に住む木工職人の息子で、アカネとは年が近いが、互いに言葉を交わしたことはなかった。
彼は手に小さな壊れた木笛を持っていた。
「……直せないんだ。父さんももう無理だって言った」
ユウは祠の前にしゃがみ、焚き火を見つめながらぽつりとそう言った。
アカネは驚きながらも、ゆっくりと彼の隣に座った。
「なぜ、ここに?」
「……火に話すと、誰にも言えないことも、少し楽になるって、誰かが言ってた」
アカネは頷いた。語霊の火は、人の言葉を奪わず、ただ聴き取るだけの存在だ。
しばし沈黙が流れた。
ユウは壊れた笛を見つめ、火の中にそっと差し出した。
「もし、直るなら……この音、もう一度聞きたいんだ」
その瞬間、炎が一瞬だけ高く揺らぎ、笛の木に朱の光が反射した。
アカネは目を見開いた。
語が、動いた。
火は何も語らなかった。
だが笛の割れた部分が、赤く染まりながら徐々に綻びを閉じていくように、少しずつ、形を変えていった。
ユウは目を見張った。
「……直ってる……!」
笛をそっと唇に当て、吹く。
低く優しい音が、祠の静けさの中に広がった。
その音は、まるでこの山の深部に届くような、澄んだ調べだった。
「ありがとう……」
ユウはアカネに深く頭を下げた。
アカネは何も言わずに微笑んだ。
その日から、ユウは時折祠を訪れるようになった。
語を持たずとも、火に向き合う者。
アカネの語が、誰かの心に届いた初めての瞬間だった。
ある日、ユウは木片を持参していた。
「これ、笛に使えるか試してみたくて……」
祠の傍に腰を下ろし、ナイフで慎重に削り始める。
アカネは隣に座り、静かに焔を見つめた。
「ユウ。音って、語に似てる気がする。形はないけど、伝わる」
「うん。言葉にしなくても、わかることがある」
火のはぜる音と、木を削る音。
そのリズムが、まるで語霊と人とが、ひとつの詩を紡いでいるようだった。
ユウが手を止めて笑う。
「この木、すごく柔らかい。不思議と、火のそばだと作業がうまくいく」
アカネは微笑んだ。
「それは、火が語を手伝ってくれてるのかもね」
ふたりの間に、言葉のいらない対話が生まれていた。
その夜、アカネは夢を見た。
赤い光に包まれた未来の祠。
焔の守人と、音の語り部たち。
そこには、アカネも、ユウもいた。
そして見知らぬ人々が、火のまわりで語り合っていた。
目覚めたとき、胸が温かかった。
火は人を傷つけもするが、集め、癒し、導く力も持つ。
彼女は悟った。
自らの語は、他者とともにあることで、より確かなものとなる。
焔の守人は、語る者ではなく、語らせる者。
火を通して、人の想いが芽吹く場を築く者。
この山に、新たな語の根が生まれようとしていた。