石室の空気は澱んでいた。だがアカネには、それがどこか懐かしい胎内のようにも感じられた。
壁に刻まれた古代文字のひとつひとつが、まるで脈を打っているかのように、わずかに光を帯びていた。
「これは……生きてる……」
思わず呟いたその声も、祭壇に吸い込まれていくようだった。
アカネは松明を掲げ、石室の隅々を見渡した。奥の壁に、丸いくぼみがあるのを見つけた。
その中心には、黒曜石でできた勾玉が嵌め込まれていた。まるで、炎の瞳のように深く光をたたえていた。
触れてはならない、と一瞬思った。
けれど、同時に語が囁いた。
「触れよ、継ぎ手よ。汝が焔は未だ胎動にすぎぬ」
恐怖はなかった。ゆっくりと手を伸ばし、指先が黒曜石に触れた瞬間——
石室全体が淡い朱に染まり、壁の古代文字が一斉に輝き出した。
耳をつんざくような音とともに、アカネの意識は炎の渦に飲まれていった。
——そこは、火の記憶の中だった。
無数の過去の火が見えた。
大地を焦がした焔。
生命を育てた焔。
怒りに震えた焔。
祈りに応えた焔。
絶望に沈んだ焔もあれば、愛を灯した焔もあった。
それらがすべて、語の形となって流れ込み、彼女の中に刻まれていく。
その瞬間、彼女の身体は火と語の交わる器となった。
熱さも冷たさもない、ただ揺らぎのような感覚が内奥に満ちる。
「おまえの語を、この地に刻め」
再び、あの声が響いた。
だが今度は問いかけだった。
「アカネよ。汝の火は、何を燃やす火か?」
アカネは胸の奥から答えを絞り出す。
「人の孤独を、温める火……です」
瞬間、朱の世界が砕け、現実へと引き戻された。
彼女は祭壇の前に跪いたまま、深く息を吐いた。
火は静かに燃えていた。
だがそれはもう、ただの火ではなかった。
語を宿す火。
新たな神話を刻む火だった。
その日からアカネは、火を通して語を綴りはじめる。
祠に集う者はいなかったが、風が語を運び、山の獣が足を止め、小鳥が枝先で羽を休めた。
焔の巫子としての目覚めは、誰の祝福もなく静かに始まった。
けれど夜ごと彼女は夢の中で、語霊たちの囁きを聞いた。
その語は、時に喜び、時に涙し、時に怒りを灯し、火の精霊のように揺れていた。
アカネは語を書き記すことはしなかった。
彼女の語は、火の中にしか存在しない。
だがそれこそが、失われた神話の継ぎ手としての証であった。
それは、後に六系譜のうち“焔の守人”として記される最初の物語であり、
語霊の大地に刻まれる、確かな一章であった。