山祠に、客が訪れた。
その者は淡い青の衣を纏い、
肩に星の紋章を刻んだ布をかけていた。
星降る記録者の一人、名をスフィアという。
語を記録し、系譜の網を織り上げるため、
大地を巡り“継承の正統性”を検証する者たち。
彼女の目的は、ただひとつ。
「あなたが“記録なき語の継承”を行ったと聞きました。
それは、記録者としての逸脱です」
◇
サイシンは、静かに頷いた。
否定はしなかった。
だが、肯定というには重すぎる問いだった。
「確かに記録は残していない。
けれど、語は生きています。
記録されなかったからといって、語の命を否定できるでしょうか?」
スフィアは目を細めた。
「語の命を否定するのではありません。
ただ、その“証明のなさ”が、
語の重さを失わせる危険を孕むと申しているのです」
◇
二人は、祠の奥にある“無記録札”の前に立った。
そこには何も書かれていない。
ただ、サイシンの手で納められた一枚の石札が静かに置かれていた。
「この語は、記されなかった。だが、継がれた」
スフィアは、石札に手を触れる。
「この札は、誰かの“語の証人”でしかありません。
語そのものを未来に残す機能はない。
記録者の義務として、それを放棄したことになります」
「ならば、“語の魂”はどこに残るべきなのです?」
サイシンの問いに、スフィアははっとした。
「……語の魂、ですか」
◇
沈黙が落ちた。
だがその間にも、祠の風はかすかに鳴っていた。
サイシンは語る。
「記録が語の形を守るなら、
語の魂は、それを受け取った者の中にこそ宿ります。
語を“書くこと”が真実なら、
“託すこと”もまた、別の真実です」
スフィアは初めて、わずかに表情を崩した。
「わたしたちは、“系譜を繋ぐ”ことに囚われすぎていたのかもしれません」
◇
その日の夕方、スフィアは祠を離れる前にこう残した。
「私は、この記録が“ないという記録”であることを報告します。
それが語の未来にとって、どのような意味を持つか――
まだ答えは出せません。だが、
語の存在を一元的に測ることが困難であることを、今は理解しました」
そして、懐から星の砂を一粒だけ置いていった。
それは、記録に残らぬ“観察の証”だった。
◇
その夜、サイシンは語札を開き、こう記した。
「語は記録を越え、記録は語らずとも残る。
証明なき継承のなかにも、魂が宿ると信じる者がいる。
ならば、それが語の命だ」
風が吹いた。
だがそれは、記録をめくる風ではなかった。
静かに、語の未来を問いかける――
そんな風だった。