山の風が、わずかに変わっていた。
それは、石に響く風ではなかった。
語を記録するのではなく、語が誰かの胸に託されたことを知らせる風。
サイシンはその変化を、はっきりと感じていた。
(語が、石ではなく、人に刻まれようとしている)
◇
数日後、祠に一人の若者がやってきた。
名をエンという。
かつて旅の中で“語に触れたが、記録されることを拒んだ者”。
「わたしの中に、語が眠っている。
でもそれは、誰かに“記される”ことを望んでいない。
だから……“託して”ほしい」
サイシンは、その言葉に答えた。
「語を託すとは、書き残すことではない。
“記録せずに伝える責任”を背負うということだ」
祠の掟に反することは明らかだった。
記録なき語は、語と認められない。
だが、サイシンの中には確かな感覚があった。
(これは……語が“記録よりも響き”を選んだ瞬間だ)
◇
石を使わず、札も筆も用いず、
サイシンはエンに語を託すための場を設けた。
祠の裏の静かな岩棚。
風も届かぬその場所で、二人はただ向かい合って座る。
サイシンは語らない。
ただ、自身に宿した“語の根”を、心の奥で鳴らす。
その響きを、エンが“聴く”。
それは語のやり取りではなく、沈黙の交信だった。
数刻ののち、エンは涙を流した。
「……わたしの中に、語が芽吹いた」
それは確かに“託された”という証だった。
◇
サイシンは祠の記録簿に、空白の札を一枚だけ挟んだ。
何も書かれていない。
だが、そこには一行だけ添えられていた。
「この語は、記されなかった。だが、継がれた」
老記録者はそれを見て、しばし沈黙した。
そして、こう言った。
「語を記す者としては、それは反則だ。
だが、“語を生かす者”としては、それが最上だろう」
「記録しないことを選ぶというのも、また記録の形なのですね」
◇
エンは祠を去るとき、何も持たなかった。
だが、その背には確かな“響き”が宿っていた。
風が吹いたとき、彼のまわりにはまだ語になりきらぬ余白があり、
そこに未来の語が芽吹く気配があった。
語は、記されずとも伝わる。
だがそれには、伝える者と受け取る者の両方に覚悟が必要だ。
◇
その夜、サイシンは独り言のように記録札に記した。
「わたしは記録者であると同時に、語りを託す者になった。
語は、もはや石に縛られぬ。
人から人へ、沈黙から沈黙へ。
それが、わたしたちの継承だ」
祠の灯が揺れた。
風が吹き抜ける。
記録なき語が、それでも確かに生き続ける――
その確信が、山祠の奥深くで静かに芽吹いていた。