山祠に、異変が起きた。
かつて記録された語の一枚――
年代不詳の石札が、深夜に突然砕け散った。
刻まれていたはずの文字は、粉となり、
記録として残すはずの語は、跡形もなく消えていた。
だがサイシンは、ただの劣化ではないことを感じ取っていた。
(語が……自ら消滅を選んだ?)
◇
翌日、古記録の封印を解いた彼は、
その石札に付随していた古い帳面を見つけた。
そこには、記録者の名とともに、こう記されていた。
「この語は、封じるべきではなかった」
「だが、当時の声に抗えなかった。
よって、記録に“意図的な歪み”を加えた」
それは――記録された語が、偽りであったことを告げる証だった。
◇
祠の教えは、「語を歪めてはならぬ」「語るな、記せ」の二律背反に支えられてきた。
語りの自由を持たぬ代わりに、
記録者は“誠実”だけを拠り所にしていた。
サイシンは言葉を失った。
(記録とは、絶対の真実ではなかったのか……?)
◇
その夜、彼は夢を見た。
かつて偽りの記録を残した記録者――
灰衣をまとった中年の男が、静かな瞳でサイシンを見つめていた。
「あのとき、わたしには選べなかった。
語をそのまま記せば、村は分断される。
だから、語の一部を削り、別の祈りにすり替えた」
「語は……生かすために偽られたのか?」
サイシンの問いに、男は首を横に振った。
「いや。生かすためではなく、
“沈黙を守るため”に偽った。
それがどれほどの罪か、わたしは後になって知った」
夢が覚めても、サイシンの胸にはその声が残っていた。
◇
彼はその石札の粉末を集め、
祠の奥にある“再祀の台座”へ運んだ。
そこは、一族の記録が誤りであったと認める唯一の場所。
台座に、彼は一行の語を刻む。
「この地に記された語のうち、
ひとつは語られることを拒まれた。
よって、ここに“誤りの余白”を残す」
◇
老記録者がそれを見て、深く頷いた。
「記録の誠実とは、真実だけを残すことではない。
“誤りの存在を記す”こともまた、記録者の責務だ」
サイシンは言った。
「語を記せば、それは“語られたことになる”。
だからこそ、記せなかった語に、
“沈黙という真実”を与えねばならない」
祠に、静かな風が吹いた。
◇
サイシンはその夜、記録札を一枚だけ書き記した。
「語は語られず、記される。
だが、記されずに消えた語があったとき、
それを“なかったこと”にはしない。
そこに沈黙があったと、正しく記す」
それが、記録者としての誠実。
そしてそれは、語を“生かす”ための、
もっとも静かで強い祈りだった。