霧が、谷を覆っていた。
祠のまわりの石も、木も、空も、
すべてが輪郭を失い、沈黙に包まれている。
けれどサイシンの耳は、その奥に微かな“語の揺れ”を感じ取っていた。
それは、遠くから誰かが近づいている予兆だった。
◇
山道に、一人の旅人が現れた。
背は低く、まだ若い。
だがその目には、深く澄んだ響きがあった。
名をノリハという。
風紡ぎの末裔――風渡りの者の分家にあたる系譜であり、
“語の予兆”を読み、まだ語られぬ語を探し求める者たち。
ノリハは、サイシンの祠に“語を継ぐ場”を求めて来たという。
「あなたの祠に記された祈りが、風の中で再び動き出した。
その語は、まだ語られていない。……けれど、語られることを望んでいる」
◇
サイシンは、変質を始めた石板を見せた。
ノリハは静かに手を触れ、目を閉じる。
「……これは“語の核”が残っている。
だが外側の構造は、もう“祈り”ではなく、“問い”に近い」
かつての語り手が封じた“祈りの語”は、時を経て
「なぜ封じたのか」「なぜ語れなかったのか」という問いの構造へと変化していた。
ノリハは続けた。
「これは、記録された“語の死”ではない。
語が、自分で“生き直そう”としているんだ」
◇
その夜、サイシンは語の記録札を並べた。
そして、ノリハに問いかけた。
「記すことと、語ることは、矛盾するのか?」
ノリハは首を振る。
「記録は、語の“眠り”を保つもの。
語りは、その眠りを“目覚め”に変えるもの。
どちらも、語が生きるための形だよ」
サイシンは思い出した。
かつての祠の教えでは、語は語られずに記され、
未来の誰かに向けて残されるべきものだった。
だが今、自らの手で記した語が、誰かに響こうとしている。
それを「ただの記録」にとどめることが――
果たして“語の尊厳”なのだろうか。
◇
翌朝、彼は決意を口にした。
「……語を記す者として、わたしが“語り手に渡す記録”を残す」
それは、記録者が語り手へ語を託すという“禁忌に近い行為”。
だがサイシンは確信していた。
「語は循環するもの。
その流れの中に、記録も、語りも、同じ風としてあるべきだ」
ノリハは頷いた。
「あなたの記した語を、わたしが“語として編む”よ。
それが語の継承。……そして、未来への響きになる」
◇
その日の午後、祠の奥で儀が行われた。
サイシンは記録者として、
かつて記された祈りの変質と、それを語へつなぐ“語の経路”を石板に刻んだ。
ノリハはその前に座り、目を閉じて語り始めた。
「ここに、祈りがあった。
ここに、語が封じられた。
けれど、語は眠りながらも、響きを忘れなかった――」
それは、記録と語りの共鳴だった。
◇
その夜、風が祠の奥まで届いた。
石板のひびは消え、
その中央に、新たな紋様が浮かび上がった。
“語”と“記録”の中間にある、
誰の声でもない、“場そのものの響き”。
サイシンはそれを見つめながら、記録札にこう刻んだ。
「記すことは、語を閉じることにあらず。
記すとは、語を誰かに“託すための場”をつくること」
そして、その札をノリハに手渡した。
風が、それを包んだ。
語が――継がれた。