山に、風が届いた。
それは遠く“風渡りの地”から吹いてきたものだった。
祠の入口で、サイシンはその風に触れ、
見たこともない響きの断片を感じ取った。
(これは……わたしたちの語じゃない)
風の中に、語の輪郭があった。
語られたわけでも、記されたわけでもない。
ただ、風に“託された想い”が揺れている。
◇
その日の午後、旅人が山を登ってきた。
旅装は薄く、身なりも軽い。
けれどその背には、たくさんの風笛と語札が結ばれていた。
「ここが、語を記す祠……か」
男の名はハバト。
風渡りの者。
語を風に乗せて届ける、伝達の系譜のひとり。
だが彼は、ある語を“記録したい”と願って、この山を訪れた。
「風は語を運ぶ。けれど、時に語は流れすぎてしまう。
記すことで、失われずに済む語があると知った」
サイシンは警戒しながらも、案内を許した。
祠の奥、記録の石座に、ハバトが語札を広げたとき――
風が、ほんの一瞬、石を震わせた。
(語が……ここに“根を求めている”)
◇
ハバトの語は、不思議な響きだった。
それは言葉というよりも、
出会いの中で紡がれ、風に乗った“出来事そのものの記憶”。
「これは、名も知らぬ少女の声。
誰にも届かず消えていくはずだった語だ。
でも、わたしはそれを拾った。だから記したい」
語を記すとは、誰かの生を“ここに在った”と証すこと。
サイシンはその真意に気づき始めていた。
(記録は、封印ではない。“語があった”という証明)
◇
石座の横に、新しい石板が用意された。
その表面には、いかなる文字も刻まれていない。
けれど、ハバトが語笛を吹くと、その音に合わせて
サイシンの手が自然と動いた。
音ではなく、“ゆらぎ”としての語が刻まれていく。
風の高低、間、震え。
それらが石板に記されていく。
「わたしが語りたかったのは、語そのものじゃない。
その語が発された“瞬間の響き”なんだ」
それは風渡りの者が語に込める“願い”だった。
◇
記録は、終わった。
けれど、その石板からは確かに“語の気配”がにじみ出ていた。
それを見て、ハバトは深く頭を下げた。
「語は、ただ語るだけでなく、記されることでも息づく。
あなたたちの記録は、静かであっても……確かに語と共にある」
サイシンは返した。
「そして、風が運んだ語は……石に刻まれることで、根を持つ。
語は、旅を終える場所を求めているのかもしれない」
◇
その夜、風は祠の中で静かに鳴いた。
サイシンは一枚の記録札に、こう刻んだ。
「語は風に乗り、山に根を張る」
ハバトは翌朝、語のない風笛をひとつ、祠に残して山を降りていった。
それは、記録された語が“再び風に乗る”日が来ることを願っての贈り物。
語は、語られ、記され、忘れられ、また芽吹く。
その循環のなかで、サイシンの記録はひとつの新しい役目を帯び始めていた。
記すことは、終わりではない。
それは――語の未来を守る祈りだった。