山に、雪が降った。
白い静けさが祠を包み、
風も止まり、音は深い沈黙のなかへと沈んでいった。
だがサイシンは、その沈黙の奥に確かな“響き”を感じていた。
それは、記録されなかった語、
語られずに継がれた語、
そして沈黙そのものが持つ、“語よりも古い祈り”の気配だった。
◇
祠の奥深く――
かつて“語の根”と呼ばれた石窟の前に、サイシンは立っていた。
その傍らには、一本の大きな石碑。
新たに祀るために掘り出された、未使用の記録石。
しかし、そこに文字は刻まれなかった。
代わりに、サイシンは周囲に十枚の記録札を並べた。
それぞれが、彼の歩んだ語との対話の記録――
封じられた語、偽りの記録、託された語、記されぬ継承、星の証言。
それらを石碑のまわりに“語の輪”として円形に配置した。
「これは、語を記すための碑ではない。
“語の在り処”を示すための碑だ」
◇
その儀を見届けに、いくつかの系譜の者たちが集まっていた。
風渡りの者からはノリハ。
潮流の民からはユルナ。
星降る記録者からはスフィアも再び姿を現していた。
皆、語を記録せずに継ぐという行為に戸惑いを抱きながら、
それでも祠に集うことを選んだ者たちだった。
サイシンは語った。
「語を記す者として、わたしは語を見つめ続けてきた。
だが今、語はわたしたちの外にではなく、
“わたしたちの関係のなか”にあると知った」
◇
石碑を囲むように、皆が静かに輪になって座る。
言葉は交わされない。
だが風の音もなく、焚火もない中で、
語られぬままの“響き”がその場を包んでいく。
ノリハが目を閉じ、
エンがそっと胸元の何もない札に触れ、
ユルナは手のひらに小さく祈りの語をなぞり、
スフィアは何も語らず、ただ碑に耳を寄せていた。
そのとき、雪が止み、
空からほんのわずかに光が差した。
◇
サイシンは語札を最後に一枚だけ取り出した。
それには、こう記されていた。
「語は、記録されなくとも語である。
語は、語られなくとも記憶である。
語は、沈黙のなかでこそ、生きるときがある」
それを石碑の下に埋め、彼はこう締めくくった。
「わたしたちが生きたこと。
それ自体が語であり、誰かの記録でありうる。
語の重みは、記録よりも深く、記憶よりも静かに、
語る者と、聴く者との間に宿る」
◇
雪解けの水が石を伝い、碑の根元に染みていく。
その様子を見届けた皆は、やがてそれぞれの道へと戻っていった。
語は、そこに残った。
だがそれは、石に刻まれた語ではない。
“語ることなく、沈黙のなかに交わされた響き”――
それこそが、祠に今も息づく語の記録であり、魂だった。
◇
その後、山祠には記録を求めてやってくる者が増えた。
けれど、石碑には何も書かれていない。
それでも、碑のまわりで耳を澄ませた者たちは、
静かに涙を流し、微笑み、語り始めたという。
語られていないはずの語が、
心の奥で“思い出された”かのように。
語は、巡る。
記録が途切れても、
響きが誰かの内に宿るかぎり、
語は――決して失われることはない。