山は語らない。
ただ、すべてを記憶している。
風が吹いても、火が走っても、
水が削っても、
山はただ黙して、語の痕跡を抱え続ける。
◇
その山に、一人の少年が住んでいた。
名をサイシンという。
山祠の末裔。
語を語らず、記し、守ることに徹する一族の末裔。
祠の石に語を刻み、時を超えて響きを封じる“記録者”であった。
サイシンは、語のことばかり考えていた。
語とは、なぜ消えるのか。
なぜ、語られたものは風に流れてしまうのか。
そしてなぜ、自分たちはそれを語ることなく、記し続けるのか。
山はその問いに答えない。
代わりに、サイシンにひとつの石板を授けた。
それは、一族が代々守ってきた“記されぬ語”の石。
表面にはなにも書かれていない。
けれど、それを触れると胸の奥がざわつく。
(……この石は、“語を記していない”ことで何かを封じている?)
◇
ある日、山のふもとから、ひとりの旅人が現れた。
衣は朽ち、目は曇っていた。
けれど口元には微かな響きがあった。
「この山には、忘れられた語があると聞いた」
旅人は、記録者だった。
だが、記し続けるうちに“語を語ること”を忘れた者だ。
「わたしは、語を記しすぎて、語が持っていた“温度”を忘れてしまった」
その声は震えていた。
記録の奥に、響きが消えてしまった苦悩。
サイシンは、その姿に自分の未来を見た。
(わたしも……語を記すことで、語の命を失わせてはいないか?)
◇
その夜、祠の奥で、サイシンは“記されぬ石板”に手を触れた。
すると、微かな震えと共に、かすかな文字が浮かんだ。
「わたしは、語られることなく、記された」
それは――石そのものが語っていた。
語が語であるために、
記録とは、ただ残すことではなく、“響きの場を保つ”行為であると。
サイシンは目を見開いた。
「記すとは、封じることではない。
語を語ることなく、語を開くための扉なのだ」
◇
翌朝、旅人は再び山を下りようとしていた。
サイシンはひとつの石板を手渡した。
それは、文字のない石。
けれど、風の中にわずかに“語の気配”が残るように加工されていた。
「これは、“語られなかった語”を抱いた石。
語を記すことで、それが未来で開かれるように作った」
旅人は黙ってそれを受け取り、深く頭を下げた。
◇
その日から、サイシンは語を記す手を止めた。
代わりに、語の余白を刻み始めた。
言葉ではない。
音でもない。
ただ、語が「ここにあった」ことを未来へ繋ぐための記録。
語を失わせないために、語られない語を刻む。
沈黙のなかで、語の祠は再び音を取り戻していった。