森に、やわらかな風が吹き始めていた。
それは季節の変わり目を告げる風ではなかった。
イリカの語が森に響き、癒しの波紋が静かに広がりはじめた証だった。
語の樹は、新たな芽をつけていた。
それは、彼女が他者の記憶に寄り添い、共に“在る”ことを選んだ証でもある。
けれど、語の芽が育つには、さらなる“響き”が必要だった。
そしてその響きとは――他者と語を交わすことに他ならなかった。
◇
ある朝、森の外れに住む治癒師・マノが祠を訪れた。
彼の顔は、どこか焦りを含んでいた。
「イリカ……来てくれ。
村の者が、眠ったまま目を覚まさぬのだ」
「眠ったまま……?」
マノは頷いた。
「夢に囚われているのだ。目は開けぬが、涙を流している。
癒し手にも薬草にも届かぬ、深い痛みだ」
イリカの中で、語の実が微かに揺れた。
それは、呼応――“癒しを求める声”への共鳴だった。
◇
小屋に着くと、そこには少女が横たわっていた。
年の頃はイリカと変わらぬほど。
胸元に手を抱き、顔には苦悶の影が浮かんでいた。
イリカは、そっと彼女の手に手を添えた。
冷たくはなかった。
けれど、どこかで確かに“魂の揺らぎ”が起こっているのを感じた。
(この子の中に、語が……眠ってる)
イリカはひとつ、音を紡いだ。
それは囁きのような、風のような“癒しの響き”。
すると、少女の眉がわずかに震え、
その頬を伝って涙がこぼれた。
次の瞬間――
イリカの意識は、少女の“夢”へと引き込まれた。
◇
そこは、真っ白な空間だった。
音も色もない。
ただ、果てのない孤独が漂っていた。
「……ここにいるの?」
イリカの声に、遠くで影が揺れた。
それは怯えた目をした少女だった。
彼女の背後には、黒い葉が渦を巻いていた。
「こないで……わたしに触れないで……」
その声には“拒絶”と“恐れ”が混じっていた。
イリカは立ち止まり、胸に手を置く。
(わたしもかつて……声を閉じていた)
誰にも届かないと思っていた。
語っても意味がないと思っていた。
でも――今は違う。
「わたしも、声を閉じていたことがある。
だけど……声を重ねたら、痛みは少し、やわらいだ」
彼女はそっと語を口にした。
「――やわらぎ」
その語はやさしい風となり、黒い葉の渦をわずかに揺らした。
少女はぽつりと囁く。
「……怖かったの。誰にもわかってもらえないって思ってた」
イリカはそっと微笑む。
「それでも、語ってくれてありがとう。
わたしに届いたよ」
その瞬間、ふたりの間に緑の葉がひとひら舞い降りた。
“癒しの種”が芽吹いた証だった。
◇
目を覚ました少女の瞳に、涙がにじんでいた。
「夢を見ていた気がする……でも今は、少しあたたかい」
マノは静かに息を呑んだ。
「まるで、語が癒したかのようだ……」
イリカは頷いた。
「彼女の語は、まだ芽吹いたばかり。
でもきっと、これから誰かの癒しになる」
◇
その夜、祠に戻ったイリカは語の樹の前に立った。
語は、他者に触れてこそ“命”になる。
語られなかった痛みに寄り添い、芽吹かせる。
それが――語り手の役目。
森に風が吹いた。
かすかに葉が揺れ、彼女の背を押すように語の音が響いた。
それは、“癒しの語”の芽吹き。
そして、語り部としての新たな一歩。
癒しとは、他者の痛みを知ること。
語とは、共に生きるための“祈り”なのだ。