森は静かだった。
だがその静けさの中に、イリカは微かな変化を感じていた。
語の樹に語を捧げてから数日。
森の空気には、言葉にならない“響き”が満ち始めていた。
鳥のさえずりは、以前よりもゆるやかに重なり合い、
風の通り道は、まるで語の音を運ぶために整えられたようだった。
イリカは毎朝、語の樹のもとを訪れ、声を紡いだ。
まだ言葉にはならない。
だがその響きは、たしかに森に“小さな波紋”を生み出していた。
◇
ある朝、彼女は祠の前で不思議なものを見つけた。
一枚の葉が、苔の上にそっと置かれていた。
けれどそれは、ただの葉ではなかった。
中央に淡い紋様が刻まれており、微かに脈動するような気配を放っていた。
「……これは、“響きの葉”」
遠い昔、語を声にできぬ者たちが、想いを記すために用いた葉。
語の代わりに、記憶を乗せる器。
まさに“語られぬ声”の象徴だった。
誰が置いたのかはわからない。
けれど、その葉から伝わる震えは、確かに彼女の語と共鳴していた。
(この森には……まだ届いていない声がある)
その夜、イリカは夢を見る。
霧の中に、少女がひとり立っていた。
その唇は何かを語ろうとしていたが、声にはならなかった。
代わりに、少女の胸元から“響きの葉”が光を放ち、イリカの足元へと舞い降りた。
目覚めると、彼女の手にはその葉が握られていた。
夢ではなかった。
語は、今もどこかで眠っていて、誰かに届くのを待っている。
◇
森の奥、“語の泉”と呼ばれる場所がある。
そこは古来、癒しの根源とされる秘地。
語の種を捧げることで、忘れられた声が浮かび上がるという。
イリカは“響きの葉”を胸に抱き、泉へと向かった。
森は深く静かだったが、彼女の足音に合わせて草がわずかに揺れた。
まるで森そのものが、語の目覚めを見守っているかのようだった。
泉にたどり着くと、空は灰色に染まり始めていた。
鏡のように澄んだ水面に、彼女はそっと葉を浮かべた。
次の瞬間――
水面にさざ波が広がり、声が生まれた。
「……ここにいたの」
「わたしは、忘れられたのじゃない。語られなかっただけ」
「お願い……伝えて……わたしの痛みも、願いも……」
それは、少女の声だった。
声を封じられたまま、語られることのなかった記憶。
イリカは膝をつき、静かに語った。
「わたしは、あなたの語を受け取ります」
その言葉に応えるように、泉の奥から光が立ち上がり、空へと昇っていった。
森が、ひとつの呼吸を吐いたように見えた。
◇
その夜、長老が祠に姿を現した。
「おまえの語は、他者の記憶に触れ始めている。
だが忘れるな――語るたびに、自らもまた削られることを」
イリカはうなずいた。
「それでも、語ります。
癒されるべき声がある限り、わたしは沈黙しない」
長老の目に、わずかな憂いと誇りが浮かんだ。
「ならば、おまえは“語の揺らぎ手”。
この森に、新たな“響き”をもたらす者だ」
語は、生まれようとしていた。
痛みを癒し、忘れられた声を結び、世界に波紋を描く。
イリカの旅は、まだ始まったばかりだった。