語の樹の根元に、橙の語の実が落ちた。
そのひとつを拾い上げたイリカの手に、温かな震えが伝わる。
それはまるで、語自身が何かを告げようとしているような、
生まれたばかりの鼓動だった。
(この語は……もう、わたしだけのものではない)
森は静かに呼吸していた。
葉が揺れ、草が囁き、枝の先端で風が語りかけていた。
イリカは知っていた。
語を生む者の役目は、語を手渡すことだと。
◇
森の外れに、語り手の気配を持つ少女がいた。
名はフユナ。
かつて“沈黙の家”でイリカが夢に見た、語を閉ざした少女。
長老リヒトによれば、フユナは幼い頃に癒しの語に触れながらも、
その力を恐れ、自ら声を封じたまま生きてきたという。
今、彼女は森の境界に立ち尽くしていた。
語りたい。でも語れない。
そんな揺らぎをまとって。
イリカはそっと歩み寄り、橙の語の実を差し出した。
「これは、“祈り”から生まれた語。
あなたに、託したいの」
フユナは戸惑いながらも、その実を両手で受け取った。
その瞬間、彼女の胸奥から、かすかな響きが生まれた。
言葉ではなかった。
でも、確かに“語の気配”だった。
◇
イリカは語った。
「わたしもかつて、語れなかった。
癒したいと思いながら、傷つけるのが怖くて、黙っていた。
でもね……それでも、“誰かに語りたい”という気持ちは、
いつか語の芽になる。
あなたの中にも、その種がある」
フユナの目に涙がにじんだ。
「……声にならなくても、語っていいの?」
イリカはうなずいた。
「語とは、響きそのもの。
声でなくても、存在そのものが“語”になる」
その言葉に、森の空気がやわらかく揺れた。
◇
その日、イリカは祠の裏に“癒しの環”を編んだ。
そこには語の実が3つ――
自分のもの、フユナの手から生まれたもの、
そして、まだ声にならない者たちの祈りを象徴するもの。
輪の中心には、森から集めた羽音の葉が置かれた。
その輪を囲んで、森の鳥たちが囁き始めた。
それは語ではなく、響きだった。
だが、それは確かに“共に語ろう”という祈りだった。
イリカは祈った。
もう声だけではなく、
枝や葉や沈黙や涙、そのすべてが語の一部であるように。
◇
そして、彼女は立ち上がった。
語を継ぐ者は、歩き出さなければならない。
フユナの手を取り、森の奥へ――
まだ知らぬ語り手たちが眠る場所へ。
癒しは終わりではない。
それは、次なる語を生むための、始まりの祈り。
語の輪は結ばれた。
沈黙から生まれた語が、
やがて誰かの痛みに寄り添い、次なる祈りへと受け継がれていく。
語は、語られ、聴かれ、そして――継がれていく。
それが、深林の血族の語り部たちが選んだ、
静かで力強い“癒しの道”だった。