朝露が落ちる森の奥で、語の樹がゆっくりと枝を揺らしていた。
その先端に、ひとつだけ――かつて見たことのない色の語の実が実っていた。
淡い橙に近い、温かな色。
それはまるで、まだ燃えきらぬ種火のようだった。
イリカはそっとその実に触れた。
(これは……語りかけるでも、癒すでもない。
祈りそのものから生まれた“語”)
沈黙を受け入れ、語を発せぬまま祈り続けた日々が、
語の奥底に新たな“命”を生んでいた。
◇
その日、イリカは森の西にある“記憶の泉”を訪れた。
そこは、忘れられた語が集まる場所。
語り手たちが遺した語の断片が、
水の波紋に混じって映し出されるという。
彼女が泉の前に膝をつくと、
表面にひとつの映像が浮かんだ。
それは、かつて深林の血族にいた語り手――アユハという名の少女だった。
「癒すために語った。
でも、その語は届かなかった。
だから、わたしは沈黙を選んだ」
アユハの語は、途切れたまま泉に漂い、
記録されることも、継がれることもなかった。
イリカはその声に、心の奥が揺れた。
(語れなかった語――でも、それもまた語)
◇
彼女はそっと語の種火を泉に浮かべた。
すると、水面に波紋が広がり、アユハの姿がもう一度、鮮明に現れた。
「……あなたは、誰?」
「わたしはイリカ。
あなたの語を、“祈りの語”として繋ぎに来たの」
語ることはできなくても、
語りたいと願った者たちの“種火”を、
再び芽吹かせることはできる。
それがイリカの語――
“目覚める祈り”としての語。
イリカは語った。
それは声ではなく、泉の波に重ねるような響き。
その祈りが、アユハの影をやわらかく包み込んだ。
「……ありがとう。
わたしの語が、まだここにあると知るだけで……あたたかい」
アユハの姿は、静かに泉の奥へと還っていった。
その水面に、かすかに橙の光が宿っていた。
◇
森に戻ったイリカは、語の樹の下で静かに祈った。
彼女の語は、もはや声だけではない。
沈黙、風、祈り、気配――
語られずとも、確かに伝わる“語の在り方”へと育ちつつあった。
その夜、風が森を撫でた。
葉が揺れ、いくつかの語の実が土に落ちた。
それは、語が“継がれる”合図。
語を失った者たちの祈りが、
新たな語として目覚め、次なる語り手へと受け継がれていく。
イリカはそっと目を閉じた。
――語は、誰かの心で燃え続ける種火。
沈黙の奥で祈りを孕み、
いつかまた、響きとして芽吹くのだ。