風が止んでいた。
それは、語が届かない場所に吹く、沈黙の風だった。
イリカは“語の狭間”を離れ、森へ戻る道の途中にあった山影の谷で立ち止まっていた。
胸に抱いた“未完の記憶の結晶”は、まだ温もりを保っていたが、
彼女の語の灯――祈りのような声は、不思議なほど静まり返っていた。
(語れない……)
理由はわからなかった。
けれど、語ろうとすればするほど、
声の奥に“何か深い沈黙”が立ちはだかるのだった。
◇
森に戻ったイリカは、語の樹の前に立った。
枝は静かに揺れ、葉も実もいつも通りだった。
けれど、彼女の語だけが、森に届かなかった。
長老リヒトが、祠の奥から姿を現す。
「おまえの語が止まったのは、外の語に触れたからだ」
イリカは顔を上げた。
「……どういう、こと……ですか……」
「語は、響きを受け取る器だ。
だが器が満ちたままでは、語はこぼれない。
おまえは今、“沈黙を受け入れる”段階にあるのだ」
沈黙は、語の不在ではない。
語を深めるための、空白であり間。
そのことを、イリカは頭では理解できた。
けれど胸は、どこか不安だった。
語を失った自分に、癒しの力はあるのか。
誰かを包み、聴き、寄り添うことができるのか。
◇
その晩、彼女は夢を見る。
夢の中で、イリカは言葉を喪った少女と出会った。
その子は、声を失っていたのではない。
かつて語った語が、誰にも受け入れられず、
自ら“声を閉じた”のだという。
「語っても、誰にも届かなかった。
だから……わたしの語は、無意味だったんだ」
イリカは何も返せなかった。
なぜなら、その少女の言葉が、自分自身に重なっていたからだ。
(わたしの語も……誰かを救えたと言い切れたことはない)
語る意味。癒す意志。届かない現実。
それでも――イリカはそっと、手を差し伸べた。
「……語らなくていい。
あなたが、語りたくなるまで、
わたしはここにいるから」
少女は涙をこぼし、イリカの手を取った。
その瞬間、語の灯がふっと灯るように、
彼女の胸奥で微かな音が鳴った。
◇
目を覚ましたとき、イリカの耳に、風の葉擦れが届いた。
語の音ではない。
けれどその中に、たしかに“響き”があった。
(沈黙の中に、語はある)
語れない時間は、語を失った証ではない。
それは、より深い語を“宿すための準備”だったのだ。
イリカは立ち上がり、森の中心へ歩いた。
祠の裏に、彼女は新たな語の輪を結んだ。
声は発さなかった。
けれど、葉を並べ、枝を曲げ、実を祈りの形に並べたその行為自体が、
沈黙の語となって、森に響いていた。
◇
リヒトは、語の樹を見上げながらぽつりと呟いた。
「おまえは、語を超えて“祈り”になったのかもしれぬな」
イリカは微笑んだ。
風が再び、森に戻ってきた。
語の実が揺れ、葉が音を奏でる。
そのすべてが、声なき語。
沈黙の奥から芽吹く、未来の語だった。