風は、静かに流れていた。
けれどその中には、確かな“予兆”があった。
それは語ではなく、まだ言葉になっていない響き。
誰かが語るのを待っている“種火のような語”。
カラハはその風を追って、深い森の外れへと辿り着いた。
そこは地図にも載っていない村。
けれど風は、明らかにここに“語の継承者”がいることを告げていた。
◇
村には、子どもたちの笑い声が響いていた。
その中に、一人だけ風の流れと逆らうような歩き方をする少女がいた。
彼女の動きには、不思議な節があった。
風を切るようでいて、どこか“語の旋律”に似た感覚を帯びている。
カラハはその子に声をかけた。
「きみの中に、語のかけらが響いている。……わかるかい?」
少女は驚いたようにカラハを見た。
そして、ゆっくりと頷く。
「言葉にはできないけれど……風の中に、“誰かの声”がいつも聞こえるの」
少女の名はユイ。
この村で生まれ、両親を知らずに育った子。
けれど幼い頃から、風が語りかけてくるという不思議な力を持っていた。
村人はそれを“夢見の癖”と笑ったが、カラハにはわかっていた。
ユイの中にあるのは、受け継がれるべき語の響きだった。
◇
その夜、カラハは風笛を吹いた。
音に誘われるように、ユイが焚き火のそばに座った。
「わたし……語れるようになりたい。
でも、なにを語ればいいかわからない」
カラハは、懐から結び羽を取り出した。
それは風見の塔で授かった“語を託す者”の証。
「語は、形から始まらない。
ただ、“語りたい”という響きから芽吹くものなんだ。
だから、これは……語の種。
君に、預けるよ」
ユイはおそるおそる羽を受け取り、両手で包んだ。
その瞬間、風がざわりと揺れ、彼女の髪が舞った。
語が、触れたのだ。
◇
翌朝、ユイは自分で一本の語札を作った。
けれどそこに書かれたのは“言葉”ではなかった。
揺れのリズム、風の曲線、焚き火の匂い――
すべてを組み合わせた、ユイ独自の“響きの語”。
それは語りの形式ではなかった。
けれど、確かに“語ろうとする意志”が込められていた。
カラハはそれを見て、静かに微笑んだ。
(語は、伝えるものじゃない。
響き合うことで“次の語”を生むものなんだ)
◇
その日、カラハは村を離れた。
風は背中を押し、ユイの持つ語がやがて育つことを確信させてくれる。
けれど、それは“完了”ではなかった。
「わたしの語は、まだ終わっていない。
でも今、たしかに“誰かに託した”ことで、新たな風が吹き始めた」
旅は続く。
語は、渡された。
風は、繋がった。
次に語る者は、もう現れている。
カラハは風の中で、微かな囁きを聴いた。
「ありがとう。あなたの語が、わたしを呼び覚ましてくれた――」
それは、未来から吹いた風だった。