高原の道に、風が走っていた。
それはこれまでの風とは違った。
懐かしさでも、祈りでもない――
どこか不安と焦りを孕んだ、“未来の語”の気配だった。
カラハは丘を登っていた。
語り草の地を離れたあと、風が語るままに歩いていた先に、
ひとつの“分かれ道”があった。
右は“記憶の谷”へ、過去の語に触れる道。
左は“風見の塔”へ、未来を予兆する語を読む地。
風は、明らかに左を示していた。
(風が……未来を語ろうとしている?)
語は過去に宿るものだと、長らく信じていた。
しかし今、風は“まだ語られていない語”を伝えようとしていた。
◇
風見の塔は、崖の上に建てられた細長い石塔だった。
塔の中には誰もいなかった。
だが中央の柱には、風の圧力で動く“語標”が取り付けられていた。
それは風の流れによって浮かび上がる、文字にも似た揺れの図。
風渡りの者のなかでも、未来の“可能性の語”を読む者だけが扱える道具だという。
「語は、まだ語られていない未来にも存在する」
その教えを思い出しながら、カラハは語標の前に立った。
風が入る。
語標が震え、わずかな動きを描く。
浮かび上がったのは、三つの“語の予兆”だった。
一、「伝える」――語を運ぶ者として進む道。
二、「編む」――語を自ら創り出す者になる道。
三、「手放す」――語を語らず、誰かに託す道。
それは、これまで彼が向き合ってきたすべての岐路を象徴するかのようだった。
◇
そのとき、塔の外から足音がした。
振り返ると、少女がひとり立っていた。
栗色の髪に風紋の刺繍をまとった服。
語標の紋を首元に下げている。
「あなたも、選びに来たの?」
少女は自らをリノンと名乗った。
未来の語を読む一族“風紡ぎ”の末裔。
塔の管理者であり、風が示す“語の行方”を見届ける者だった。
「でも、予兆は“読んだ者の選択”で変わる。
だからこそ、語標は問いかけるのよ。
“あなたは、どの語を生きるか?”って」
◇
カラハは迷った。
語を運び、他者の語を受け取り、
そして時に語り、祈り、繋いできた旅。
そのすべては、“選ばずに来た道”だった。
風に導かれるまま、語を拾い、響かせてきた。
けれど今、風は“選べ”と言っていた。
「……語は選ぶものではない。響きに従うものだと、ずっと思ってた」
リノンは微笑んだ。
「それもひとつの選択。
でもね、未来はただの風じゃない。
語る覚悟のない者には、吹かない風もあるのよ」
その言葉に、カラハの胸にひとつの語が浮かぶ。
(わたしは、“語を託す者”になりたい)
自分の語を持ち、運び、響かせることの旅は、
誰かに“語を手渡す”瞬間のためにあった。
◇
彼は語標の三つの揺れのうち、
“手放す”を選んだ。
すると、風が静かに塔を包んだ。
語標が消え、代わりに一つの風の羽が舞い降りる。
それは“語を託す者”に与えられる証――結び羽。
リノンは深く頭を下げた。
「あなたは、未来に語を手渡す風。
いずれ、あなたの語を受け取る者が現れる。
そのとき、あなたは“語を終えずに渡す者”として記されるでしょう」
カラハは羽を受け取り、静かに塔を降りた。
未来の語は、まだ語られていない。
だが、選んだときからその語は芽吹き始める。
◇
風は、再び彼の背を押した。
けれど今までと違うのは、
その風の中に“誰かの声”がすでに混じっていることだった。
「――待ってるよ、あなたの語を。
まだ見ぬ誰かが、どこかで――」
カラハは歩き出した。
語を手放すために。
語を、次に渡すために。
未来へと続く風のなかで、彼の語が静かに育ちはじめていた。