風が変わった。
潮のにおいは薄れ、代わりに乾いた草と土の香りが漂ってきた。
カラハはユルナに別れを告げ、さらに内陸へと旅を進めていた。
胸には、彼女から受け取った“潮の貝”が残されている。
それは、記憶を語に変える儀式の証。
小さな貝の中に刻まれた“語の断片”は、風に託されて誰かの胸に届くのを待っていた。
(語は旅を続ける――語り手の手を離れても、語は生き続ける)
その実感が、カラハの足取りを静かに力強いものにしていた。
◇
三日目の昼、カラハは不思議な場所に辿り着いた。
谷に広がる草原の真ん中に、ひとつだけ“風標”が立っていた。
それは、石柱に羽が何本も括りつけられた古い風の祈念装置。
語の伝達者たちが通り過ぎるとき、語を記録せず“風に流す”ために使う道具だった。
「……けれど、今は風が止まっている」
羽は音を立てず、石柱は苔むしていた。
その風標の根元に、ひとりの若者が腰掛けていた。
長い黒髪に、煤けたマント。
足元には、無数の紙片――文字のない、白紙の語札が並べられている。
「通るのか?」
若者は視線を上げずに尋ねてきた。
カラハは頷いた。
「語を運んでいる。けれど、まだ語りきれないままに」
「なら、おまえもか。
――“語りきれなかった者”の仲間だな」
◇
若者の名はシノハ。
かつて、風渡りの一族に属していたが、自ら語を閉じたという。
「語を繋ぐのが役目と言われて育った。
でも、繋ぐだけじゃ意味がないと気づいた。
語には、“終わらせる者”も必要だと」
それ以来、彼は風標の地に留まり、
誰かが残した語を“風に返す”仕事をしているという。
語られず、伝えられなかった語を、そっと土に還し、
新たな語が生まれる余地を残す者――それが彼の役目だった。
◇
その夜、風が戻った。
カラハは風標の下で眠っていたが、風の気配に目を覚ました。
風は低く、ゆっくりと谷を渡っている。
その風に混じって、かすかな音が聞こえた。
「……おまえの語、まだ途中だな」
シノハが隣にいた。
彼の指先には、カラハがユルナから託された“潮の貝”がある。
「これを、風に乗せるのか?」
「いいや、これは……まだ“結び目”に過ぎない。
語は、この先で誰かと交わってこそ、物語になる」
カラハは風笛を手に取り、小さく吹いた。
潮の香りと風の音が混ざり合い、
その音に応えるように、シノハが語札を一枚、風に投げた。
「名もない語が、いま風に還った。
さあ、おまえの語は――どこへ向かう?」
◇
翌朝、カラハは再び旅立つ。
シノハは谷に残り、風標を整えながら言った。
「おまえが語ることで、語られなかった者の語が芽吹く。
風は語を選ばないが、語り手は“受け取る覚悟”が必要だ」
「……わたしは、それを知るために旅してるのかもしれない」
カラハはそう答えた。
谷を抜ける風は穏やかで、
昨日まで止まっていた羽が音を立てて揺れていた。
風が語り始めた。
カラハの語が、それに応えるように、足元の大地に響き始めた。
旅はまだ続く。
だが、彼の中にはもう、いくつもの語が根づき始めていた。