「潮の書庫」に通い詰める日々が続いていた。石棚に並ぶ記憶の石板たちは、どれもが静かに語を宿し、ナギサを迎え入れていた。
ナギサは毎朝、祠で瞑想を行い、自身の語と向き合ってから書庫に向かう。その姿を、老女も静かに見守っていた。
「語は、耳だけでなく心で聴くもの。
そして綴るときは、想いと共に……」
老女の教えは、まるで潮のようにゆっくりと、しかし確かにナギサの内側に染み渡っていた。
この日、ナギサが手にした石板は、表面に“欠け”のあるものだった。
けれどもその中心には、微かに残る潮紋が光を放っていた。
「これは……途中で、語が絶えた記録……?」
手を添えた瞬間、彼女の意識は過去へと引き込まれた。
――少年がひとり、誰かを待っている。
――砕けた舟の残骸、曇り空の下。
――“約束”という語が、何度も心に繰り返されていた。
その記憶は、やがて霧のように消えた。
「誰かが、語を継げぬまま終わったんだ……」
ナギサは胸の奥に締めつけるような痛みを覚えた。
語が失われること。それは、誰かの想いが届かぬまま消えるということ。
祠に戻ったナギサは、老女に問いかけた。
「語って……本当に、すべてを残せるの?」
老女はしばらく黙ってから、ゆっくりと答えた。
「語とは、すべてを『残す』のではなく、『響かせ続ける』ものなのです。
それは人の心を渡ってゆく。受け継がれる限り、失われはしない。」
その言葉に、ナギサの中で新たな決意が芽生えた。
「だったら私は……語が絶えた場所にも、橋をかけたい」
夜、ナギサはひとり祠に籠もった。
手元に置いたのは、昼に触れた欠けた石板。
目を閉じて語の波に耳を澄ませる。
潮の音、記憶の残響、心の奥底に眠る想い。
すると、ふいに空間が震えた。
足元の石板から淡い光が立ち上り、断片だった潮紋が、音のように繋がり始める。
それは“終わらなかった語”が、再び語られる瞬間だった。
「……あなたの約束、私が引き継ぐ」
ナギサの声に呼応するように、潮風が祠を巡り、小さな渦を描いた。
それは、記憶の風が再び動き出した証だった。
翌朝、ナギサは石板の余白に、自らの語を添えた。
――“還りし語、継がれし願い”
それは、失われた記憶と現在の語が出会い、新たな未来を生むための「橋」だった。
老女はその石板を手に取り、長く目を閉じてから言った。
「これで、語はつながった。
あなたは、ただの継ぎ手ではない。
語を編む“語り部”として、歩み始めたのです」
その言葉に、ナギサは深く頷いた。
シオクラの海は穏やかで、彼女の背を押すように潮が引いていた。
まるで、新たな旅立ちを促すかのように。
ナギサは小さな祠の前に立ち、潮風の中でそっと誓った。
「忘れられた語のもとへ、私は還る。
そして、すべての記憶に耳を傾け、語り続ける」
潮の記憶は、今日も静かに、そして確かに流れている。
その流れの中に、新たな語り部の声が加わった。
語は、人の数だけある。
そしてそれは、誰かの中で生き続ける。