シオクラの島に足を踏み入れてから三日。
ナギサは祠の奥にある「潮刻みの間」で、毎日語と向き合っていた。
そこは、古代より語り部が記憶を記し続けてきた聖域であり、島で最も静かな場所だった。
祠の中心には、大きな石板が一枚。
その表面には波紋のような文字が無数に刻まれていた。
言葉というより、音や感情の“型”を写したような印。
それは潮流の民が生んだ、記憶を可視化するための古代語「潮紋(しおもん)」だった。
「これは、語の根となる記録……?」
ナギサが触れると、石板が微かに震えた。
その反応に呼応するように、祠の天井から光が差し込み、空中に淡い紋様が浮かび上がる。
それは波、風、雫、そして声。
記憶の象徴が、ひとつの輪を描くように巡っていた。
「ここに記されたものは、ただの過去じゃない」
老女が静かに語る。
「語とは、経験でも出来事でもなく、“感応”だよ。
それを感じ取れるのが、語を継ぐ者の力だ」
その日からナギサは、祠に通い詰めた。
潮紋の記述を読み、石板に触れ、過去に語られた声を自らの中に取り込んでいく。
石に刻まれたひとつひとつの潮紋に、かつての語り部の気配が宿っていた。
ある者は旅の記録を、ある者は出会った人々との対話を、またある者は失った誰かへの思いを——
すべてが“語”としてここに封じられていた。
「……記憶って、こうして誰かに託されて、続いていくんだね」
ある夜、ナギサは潮紋のひとつに触れた。
それは幼い子どもが初めて語を得た瞬間を刻んだ記録だった。
『ぼくのなまえは、トオヤ。これは、おばあちゃんの声』
透き通るような声が空中に響き、彼女の心に染み込む。
その声が消えたあとも、ナギサの胸はやさしさで満たされていた。
「あなたの語、ちゃんと受け取ったよ」
その瞬間、彼女の胸にあった貝殻がかすかに光を放つ。
潮紋と共鳴し、そこに新たな“音の記録”が浮かび上がった。
「ナギサ、あなた自身の語も、もう記され始めているのです」
老女がそう言いながら、手に一つの石板を差し出した。
それは真新しい、まだ何も刻まれていない小さな板だった。
「ここに、あなたの“語”を書きなさい」
ナギサは静かに深呼吸し、手を石に添えた。
すると指先から波のような光が広がり、小さな紋様が浮かび上がる。
――それは“還り”の語。
夢の中で見た白い波、旅の始まり、貝の囁き、声なき声の共鳴。
それらすべてが、ひとつの語として結ばれていく。
「……語って、記憶のかたちをしてる」
ふと、ナギサの脳裏に浮かんだのは、あの青年の姿だった。
ユリノハマで出会い、声を託してきた記憶の人。
彼の語もまた、この地に記されているのだろうか。
「この島の記録を、もっと知りたい」
その願いは、すぐに叶うこととなる。
数日後、ナギサは老女に導かれ、島の最奥にある「潮の書庫」へと足を踏み入れた。
そこには、無数の石板が棚のように積み上げられ、波の音と共に語の残響が響いていた。
その中で、彼女はひときわ古びた石板を見つけた。
表面には「オトヒビ」の潮紋——青年が口にしていた名だった。
石板に手を置くと、柔らかな声が心に届く。
『ナギサ……君が語を継いでくれて、うれしい』
それは、ナギサが確かに知る声だった。
潮流の記憶は、人と人とを超えて繋がっている。
語は、命を越えて続いていく——
その真理を胸に刻みながら、ナギサは潮紋の筆を取り、今日もひとつ、自らの語を刻んでいった。