ナギサは小島の奥へと足を進めた。
そこは森でもなく山でもなく、ただなだらかな岩と砂の道が続く静かな地だった。
耳に届くのは、遠くから聴こえる微かな潮の歌と、足元の貝殻が擦れ合うかすかな音のみ。
空には淡い光が満ち、時折、風がナギサの髪を優しく揺らす。
その風すらも、彼女にとっては語の一部のように感じられた。
――還りし者よ、記憶の門をくぐる時が来た。
胸の奥に残るその語が、道を照らす灯火となる。
歩を進めるごとに、足元の砂は白くなり、やがて、波のような模様を帯びた石畳が姿を現した。
「……ここは……」
まるで誰かが記憶を刻むために敷いたかのような道。
その先には、貝殻で象られた円環の門が立っていた。
高さはナギサの背丈ほど。
だが、それは門というより、“境界”の象徴に思えた。
ナギサはそっと布袋から、老女にもらった貝の欠片を取り出す。
光を浴びたそれは、わずかに音を放っていた。
――シィン……
貝殻が門に近づくにつれて、円環が淡く光を帯び始める。
波の記憶が共鳴するように、周囲の風が旋律を帯び、耳の奥で旋回した。
「これは……歌……」
それは幼いころに祖母が繰り返し口ずさんでいた“記憶の歌”。
けれども、その旋律は彼女が知っていたものとは少し違っていた。
懐かしくもあり、未知でもある。
まるで“これから思い出すはずだった未来”を奏でているようだった。
ナギサは目を閉じ、門の前で息を整えた。
貝を胸に押し当てると、その語が内なる波となって彼女を包んだ。
――語とは、己が存在をつなぐ橋。
風が門を吹き抜けた。
同時に、円環の中心に浮かび上がるように、水の紋様がきらめく。
それはナギサの記憶にある、かつての“潮の聖域”にそっくりだった。
一歩、門をくぐると、世界が一転した。
そこには広大な浜が広がっていた。
どこまでも続く白砂と、空を映す浅い水面。
そして、水面のあちこちには、記憶のかけらのような光球が浮かんでいた。
それぞれの光球に近づくと、さまざまな声が聴こえる。
――「さようなら」
――「ありがとう」
――「あの日の海、綺麗だったね」
それは、誰かの想い、誰かの記憶。
ナギサは気づいた。
ここは“ユリノハマ”。
忘れ去られた記憶の集まる場所。
過去と未来が交差する、語の源泉。
そして、自分の中にもまた、同じような光球が浮かんでいることを。
ナギサはひとつの光に手を伸ばした。
それは彼女の幼いころの記憶、
波打ち際で祖母と遊んだ、あの日の記憶だった。
「おかえり、ナギサ」
どこからともなく、祖母の声が聞こえた。
その優しい響きに、ナギサは微笑んだ。
「ただいま。わたし、自分の語を見つけに来たよ」
光球はふわりと空に昇り、門の上空に溶けていった。
ナギサは、まだ見ぬ記憶たちの中へと歩を進めた。
彼女の旅はまだ始まったばかりだった。