シオクラの夜明けは、いつになく静かだった。
ナギサは石柱のもとに立ち、東の水平線に浮かぶ光の帯を見つめていた。
過ぎし記憶の地ユリノハマ、語の渦ツヅラナミ、そして記憶の深層“潮の心”を経て、彼女はついに“還りの語”を手にした。
それは“語を閉じるもの”ではなく、“語を循環させる鍵”。
「語は終わらず、ただ巡るのね……」
かつて語を継いだ老女たちが、さまざまな地で記憶を編み、語を残していったように。
今、ナギサはその環の一部となっていた。
青年——リュウセイもまた、潮の風を浴びながら彼女の隣に立っていた。
彼の語もまた、静かに成熟していた。
もう“記憶の影”ではない、ひとりの“語り手”として、はっきりとその声が世界に届くようになっていた。
「ナギサ、昨日、浜辺で不思議なものを見たんだ」
「何を?」
「潮の模様が描いた輪の中に、小さな光の粒が浮かんでいた。
それはまるで、子どもが語を初めて聴いたときのような、無垢で新しい響きだった」
ナギサははっとした。
「……新たな語が、生まれようとしているの?」
リュウセイはうなずく。
「そう思う。ユリノハマも、ツヅラナミも、語の渦も、すべてが今この瞬間に繋がっている。
そして今、このシオクラの地に……新しい語り部が生まれようとしている」
そのとき、潮の書庫の奥から、風に乗って音が響いた。
――カラリ……カラン……
それは、貝殻風鈴の音ではなかった。
もっと深く、重層的で、それでいて柔らかい“語の予兆”。
ふたりは顔を見合わせ、そっと歩を進めた。
そこには、一人の少女がいた。
まだ幼さの残るその姿は、だがどこかで見覚えがあった。
「……あなたは、ユリノハマの夢で見た……」
ナギサの言葉に、少女は微笑んだ。
「“ユナ”と呼ばれているよ。わたし、語のさざ波に乗って、ここに流れ着いたの」
ナギサは息を呑んだ。
語が新たな語を呼ぶ。
まさに今、この地に“語の環”が形を取りはじめていた。
ユナは手にひとつの貝殻を握っていた。
それは、古い潮流の民の印であり、かつてナギサが初めて語を受け取った“始まりの貝”とよく似ていた。
「……これは、誰かがわたしに残してくれたもの。
でも、それが誰なのかはわからない。
ただ、いつもこの音がわたしを導いてくれたの」
ユナが貝殻を耳に当てると、風がざわめき、広場の石の文様が淡く光った。
――環(わ)は重なり、語は還る。
ナギサとリュウセイは、その響きを受け取った。
「あなたの語は、まだ始まったばかり。でも、確かにここに“在る”」
ナギサはそっと、ユナの手を取り、その掌に自分の語の種を重ねた。
「これは、わたしが受け取ったもの。そして今、あなたに託す」
リュウセイもまた、自身の記憶を宿した貝の欠片を差し出した。
「語は、継ぐだけじゃない。新たに重ね、響かせていくものだ」
ユナの目に涙が浮かんだ。
それは、初めて誰かと語を交わした者だけが流す“覚醒の涙”。
石柱が震え、海が静かにその音を繰り返す。
その瞬間、空に七色の環が浮かんだ。
それは“語の環”。
過去、現在、未来。
すべての語が重なり、巡り、ひとつになる印。
ナギサは空を仰いだ。
「語は、記憶を越えて生きていく。
人から人へ、想いから想いへ。
その環の中に、わたしたちはいるのね」
そして、ユナの小さな声が響いた。
「わたしも、語り部になれるかな?」
ナギサは微笑んだ。
「もう、なっているわ。
あなたの語は、わたしたちに届いた。
それがすべての“始まり”よ」
潮の音はやさしく、三人の語を包んだ。
その日、シオクラに新たな灯がともった。
それは、誰かが誰かに語を託し、未来へと紡いでいく“語の環”の証。
そしてその中心には、ナギサと、リュウセイと、ユナの姿があった。
語は巡る。
記憶も、想いも、祈りも。
――そして、新たな物語が、またここから始まる。