ツヅラナミの夜は深く、まるで世界そのものが静かに呼吸を止めているかのようだった。
潮の回廊を抜けた先にある祠に、ナギサと青年は身を寄せていた。
灯火の揺れが二人の影を壁に映し出し、幾度も交わされた語の残響が、風のように室内を漂っていた。
ナギサは、小さな巻貝のような声を聴いていた。
それは祠の奥深く――地の底に眠る“最後の記憶”だった。
「語が……戻ろうとしてる」
祠の中心に据えられた水盤が微かに波打ち、そこに無数の記憶の粒が浮かんでは消えていった。
青年が小さく頷く。
「この島が呼んでいる。還るべき語を、還るべき者の元へ」
ナギサは静かに膝を折り、水盤に手をかざした。
――還る波よ、未来を運べ。
そう心で唱えた瞬間、彼女の語が水に共鳴し、祠の内側が一変した。
光の柱が立ち上がり、壁に刻まれた“潮刻み”がひとつひとつ浮かび上がる。
それは古の民たちが残した未来への断章だった。
「この島に語を刻んだのは、最後の“渡し守”だった」と、青年が口を開いた。
「彼らは、語を未来へ託す者。
そして、語を過去に還す者でもある」
ナギサの胸に、ひとつの想いが湧き上がる。
「じゃあ……わたしは、ここで語を受け取るだけじゃなくて、渡していかなくちゃいけないんだね」
彼女は、ユリノハマで見た数々の記憶を思い出す。
少女の声、老女の祈り、青年の沈黙、祖母の子守唄――
それらはすべて、未来を信じた語たちだった。
「語は、戻るためだけにあるんじゃない。前に進むために、還ってくるんだ」
彼女の言葉に応えるように、水盤の波紋が広がり、一つの映像が現れた。
それは、潮の村だった。
けれどもそこには、記憶にあるはずの村人たちの姿がなかった。
浜辺に立ち尽くすのは、ただ一人の少女。
ナギサの幼き日によく似た、澄んだ眼をした子どもだった。
「……あれは……」
青年が低く囁く。
「きっと、“次なる語”の担い手だ」
映像の少女は、静かに手をかざしていた。
その指先には、小さな貝殻が光を帯びていた。
ナギサは悟った。
これは“記憶の波”が、次の担い手へ向かっている兆し――
彼女の役割は、この語を再び“還す”ことにあるのだと。
そのとき、祠の奥に続く細い回廊が静かに開いた。
そこは、記憶と未来をつなぐ最後の道。
“渡し守の間”と呼ばれる聖域だった。
青年が静かに立ち上がる。
「行こう。君が語を継いだその意味を、最後まで知るために」
ナギサは頷き、回廊へと一歩踏み出した。
天井から滴る潮の音が、まるで新たな歌の前奏のように響いていた。
回廊の先には、巨大な円環の石が待っていた。
そこには、潮流の民すべての語が重ねられた“潮の記憶盤”があった。
ナギサが手を触れると、その中央に一本の筋が光を放つ。
それは彼女の歩んできた語の道、彼女が辿ってきた記憶の軌跡だった。
その光がやがて輪となり、記憶盤全体を包み込む。
そして、ナギサの語がその中央に吸い込まれ、静かに収まった。
「これで、還ったの?」
青年は首を横に振る。
「違う。“還った”のではない。“託された”んだ」
ナギサは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
次に息を吐いたとき、彼女の中に、新たな語が芽生えていた。
それは――未来へと向かう語。
波のように打ち寄せ、語を紡ぎ、そして受け渡していく力。
「還る波は、未来を紡ぐ者の手に届く」
それが、潮流の民に課せられた静かな使命だった。
祠の外に出ると、夜明けの光が海を照らしていた。
風は柔らかく、波は静かに笑っていた。
ナギサは背中に青年の存在を感じながら、再び舟へと歩み出す。
これから彼女が還るのは、かつての故郷ではない。
“語を必要とする誰か”のもとへと向かう、まだ名もなき未来だった。