ツヅラナミの渦の中心へと、ナギサと青年は足を進めていた。
黒石の広場を抜けた先には、渦の心臓部とも呼べる巨大な洞があった。
洞窟の中は驚くほど静かだった。
水音も風も、まるで語を止めたかのように気配を潜めている。
だがナギサは知っていた。
この沈黙こそが、記憶の深層。
語たちが、いまだ名を与えられぬ声として眠る場所だと。
「……ここに、何が眠っているの?」
青年は答えず、ただ奥へと歩みを進めた。
足元の岩には、古い紋様が刻まれていた。
潮を描く線、螺旋の中に浮かぶ小さな点。
それは“無数の語が重なり、一つの意志となる”という、古の象徴だった。
やがてふたりは、洞の最奥に辿り着く。
そこには、水を湛えた円形の池があった。
水面は鏡のように滑らかで、ふたりの姿を静かに映していた。
「語は、ここで一つになる」
青年が低く囁いた。
ナギサは池の縁に膝をつき、水面を見つめた。
その奥に、数多の光がゆらめいていた。
それは、彼女がユリノハマで見た記憶の光球とは違い、
語の“種”――まだ誰にも語られたことのない、始原の声だった。
「……わたしの語は、誰の記憶とつながっているの?」
その問いに答えるように、池の水がわずかに揺れた。
ひとつの光が浮かび、ナギサの額へとふわりと触れた。
次の瞬間、彼女の意識は深い水の底へと引き込まれる。
気づけば彼女は、言葉のない世界にいた。
そこには誰もいない。
だが、静寂の奥から微かな音が聴こえた。
――ざぁん……ざぁん……
それは、生まれる前に聴いたような、
母の胎内で響いていたような、原初の波の音だった。
ナギサは、語の根源に触れていた。
言葉になる前の感情。
音になる前の願い。
記録にも記憶にもならない、けれど確かに存在する“はじまり”。
そして、そこにもうひとつの声が加わった。
「……ナギサ……」
それは、亡き祖母の声だった。
遠い日のささやき。
貝殻を渡してくれたあの手のぬくもりが、
今、彼女の語の中に息づいていた。
「あなたの声は、今までも、これからも、誰かの海になる」
ナギサは涙を流した。
それは悲しみではなく、命が語を通して続いていると知った喜びだった。
再び意識が戻ると、青年がそばに立っていた。
「……君は、深層に触れたんだね」
ナギサはうなずいた。
彼女の語は、もはや個の記憶ではない。
潮流の民すべて、いや、語を持つ者すべての記憶と繋がる場所に至っていた。
「これから、私は“橋”になる。
失われた語と、これから紡がれる声をつなぐ者として」
青年は静かに笑った。
「それが“深層の語り部”。そして、君の新しい名だ」
ツヅラナミの空が、ゆっくりと明け始めていた。
ふたりの背に、淡い朝の光が差し込む。
語は、確かに続いていく。
それは海のように広がり、波のように人と人を繋げていくのだ。
ナギサの旅は、もう“ひとり”ではなかった。
今、彼女の語は、大きな海の一部になっていた。