ツヅラナミ島の渦の中心――
その地は、言葉にならぬ静寂に包まれていた。
ナギサと青年が並んで進むたび、足元の黒石はかすかに震え、波紋のように光を帯びていく。まるで、二人の語がこの地の眠りを解いているかのようだった。
「……ここが、“記憶の深層”」
青年がぽつりと呟く。その瞳には畏れと憧れ、そしてどこか懐かしさが混じっていた。
渦の中心には、巨大な潮鏡が横たわっていた。直径数十メートルにも及ぶその鏡は、表面に海のようなゆらぎを湛え、近づく者の語によってその姿を変えるという。
ナギサが手をかざすと、潮鏡が静かに揺れ、彼女の記憶を映し始めた。
幼い日の波打ち際、祖母の歌声、ユリノハマの光球、そして潮の書庫での瞑想。
「これは……わたしの語」
彼女の内なる流れが潮鏡に染み込み、さらに深く、底知れぬ記憶の層へと触れていった。
「ナギサ、これは君だけのものではない」
青年が手を添えると、潮鏡に彼の記憶も加わった。
忘れ去られた村の風景、声を失った日、そしてユリノハマで再び語を見出した瞬間。
ふたつの語が重なり、潮鏡が激しく脈打つ。
すると、渦の中心から音が立ち上がった。
――“ザアァァ……ザア……”
それはまるで、語り継がれぬまま沈んだ無数の声が、今まさに浮かび上がろうとする合図のようだった。
「聞こえる……たくさんの、忘れられた語が……」
ナギサは膝をつき、潮鏡に額を寄せた。
その瞬間、意識が海の底へと引き込まれた。
◇
彼女が目を開けたとき、そこは星も光もない、ただ無限の水の中だった。
だが水の代わりに満ちていたのは、記憶――それも語られぬまま朽ちた想いの欠片だった。
「……誰かの後悔、届かなかった告白、捨てられた夢……」
無数の語の断片が、波のように彼女の身を包む。
その一つひとつに、ナギサは耳を澄ませた。
――「ただ、伝えたかった」
――「あのとき、手を伸ばせばよかった」
――「わたしは、ここにいた」
ナギサは静かに呟いた。
「あなたたちの声、無駄にはしない……語り継ぐ。わたしの語に織り込む」
語は、誰か一人のものではない。
それは交わり、重なり、織られることで初めて“真実”へと近づく。
◇
再び目を開いたとき、潮鏡の上にナギサは立っていた。
その背には、まばゆい海光の柱が立ち上っていた。
青年もまた、驚きに満ちた眼差しで彼女を見つめていた。
「君が、すべての語を編み始めたんだ……」
ナギサは頷いた。
「もう、わたしだけの語じゃない。
あの海の底に眠っていた無数の声を、ひとつに編んだ語。
“潮織(しおおり)の詞(ことば)”――これが、わたしの新たな名」
潮の渦が再び静まる。
島全体が息をひそめ、言葉の再誕を見届けているかのようだった。
「……これからどうする?」青年が問う。
ナギサは潮風に髪を揺らしながら答えた。
「還るよ。けれど、記録者としてじゃなく、“潮織の語り部”として。
世界の記憶に触れ、誰かの声を取り残さないために」
二人は見つめ合い、微笑んだ。
語は、これからも交差し、響き合い、誰かの心へと届いていく。
渦の中心から、再び小さな光球が浮かび上がった。
それは、これから語られるべき新たな物語の「はじまり」だった。