シオクラの潮風が静かに揺れるなか、ナギサは再び浜辺に立っていた。
潮の書庫での日々は、彼女の内なる語を磨き、他者の記憶を織り交ぜる力を育てていた。
だがある夜、彼女の夢に“渦”が現れた。
白い波が中心に向かって巻き込み、無数の声が交錯する、不穏とも荘厳とも言える夢だった。
目覚めたナギサは、その夢がただの幻ではないと直感した。
老女に相談すると、彼女は静かに語った。
「潮流の民にとって、渦とは語の交差点……過去と未来、個と全体が混ざり合う場。
それが現れたということは、あなたが“次の語”へと進む時が来たのかもしれません」
ナギサは思い出した。
ユリノハマへ至る前、青年の語に導かれて足を踏み入れた記憶の門。
あの時もまた、内なる変化が始まりだった。
「語が交わる場所……」
老女は、古い地図の断片を取り出した。
それはかつて“語の渦”と呼ばれた海域にあったという、円形の小島だった。
その名は「ツヅラナミ」。
「語の渦は、かつて記憶の深層に触れすぎて、民の多くが声を失った地とも言われています。
そこへ行くならば、あなた自身の語だけでは足りない。
“共鳴する語”を持つ者の力が必要です」
その言葉に、ナギサの胸に浮かんだのは――あの青年の姿だった。
彼の語、彼の記憶。
確かに、彼は消えかけた声を持っていた。
「彼の語が、わたしの語と……重なったとき、門が開いた」
翌朝、ナギサは再び祠を訪れ、風と潮に語を投げかけた。
「わたしは、“渦”へ向かいます。声を交わした者よ、もしあなたがまだ、この潮の中にいるなら……」
その時、潮風のなかに微かな返歌があった。
――「君の声が、今も、耳に届いている」
ナギサは微笑んだ。
小舟の舳先に立ち、彼女はシオクラを後にした。
祠の灯が遠ざかるほどに、心の中の語は静かに燃え、波と共に脈打っていた。
幾日かの航海ののち、霧の海に浮かぶ円形の島影が見えた。
そこはまるで、時間さえも巻き込むような静けさに包まれていた。
ツヅラナミの浜に降り立つと、彼女の語が不意に強く脈動した。
地の奥から聴こえる鼓動。
それは、島全体が語を待ち望んでいるかのようだった。
その中央には、螺旋状に敷き詰められた黒石の広場があり、中央に立つ石柱が風を受けて唸るように震えていた。
「……ここが、“渦”の中心……」
彼女が石柱に手を伸ばすと、風が逆巻き、遠い記憶の声が響き渡った。
――語を継ぐ者よ、ここに名を刻め。
ナギサは、自らの語を、祈りのように口にした。
それは波のように広がり、渦の輪郭に溶けていった。
すると、石柱の影からあの青年が姿を現した。
「君を信じていた」
彼の声は、今や明瞭で力強かった。
ふたりの語が重なった瞬間、黒石の広場に潮の模様が浮かび、天へと光が立ち昇った。
“語の渦”は目覚めた。
それは、無数の記憶が一つの鼓動として響き合う瞬間だった。
ナギサと青年は共に手を取り、渦の中心に向かって歩き出す。
そこには、まだ誰の声も届いていない、深層の記憶が待っていた。
語は、まだ終わらない。
むしろ、ここからが本当の“始まり”なのだと、ナギサは静かに感じていた。