まだ語が世界に満ちる以前、人々は火を恐れていた。
それはただ焼き尽くすものであり、命を奪い、家を呑み、闇の中に潜む獣よりも忌まわしきものとされていた。
火にまつわる祈りはすべて“避けること”を目的としていた。
祭壇に供えるものは生け贄ではなく、失われた者たちの名だった。
人々は火の名を口にせず、ただ“それ”と呼んだ。
それでも、火は常に人々のそばにあった。調理に、夜を照らす灯に、冬を越す熱源に。火なしでは生きていけないのに、誰も火の意味を語らなかった。
だが、ある時を境に、火はただの災厄ではなくなった。
それは、ひとりの少女の名とともに記録されている。
名はアカネ。
赤き衣を纏い、瞳に火を宿した巫子。
その日、空は焼けるような夕暮れに染まっていた。
大地の端から端までが赤く照らされ、人々が言葉を潜める中、
村の祭壇に並べられた薪に火が灯されるのを待っていた。
この夜は、古くから伝わる“火鎮めの儀”の夜だった。
過去に大火に見舞われたこの村では、年に一度、祈りを捧げることで火の怒りを鎮めるという風習が残っていた。
アカネは、静かに祈りを捧げていた。彼女だけが、薪の前に立つことを許されていた。
儀の巫子に選ばれるのは、火に“試されし者”とされる。
かつて、選ばれた若者が薪の前で倒れ、そのまま二度と目を覚まさなかったという話もあった。
それでもアカネは、何の迷いもなくそこに立っていた。
村人たちの目は畏れと敬意が入り混じり、誰も声を発さなかった。
「この火が、奪うだけのものになりませんように……」
彼女の声はかすかだったが、風はその願いを拾い、薪のまわりをそっと舞った。
やがて、火がついた。
それは不思議な火だった。
激しさの中に、どこか優しさがあった。
燃えながらも、恐怖を呼ばず、見ている者の心を温めるような光。
誰かが息をのんだ。誰かが膝を折り、泣いていた。
子を失った母が、炎に手を合わせていた。
頑なな長老たちでさえ、黙して頭を垂れた。
村の長が静かに言った。「これが……語霊の火か」
火が語る。
火が記す。
火が、人の魂に意味を与える。
その夜、アカネは夢を見た。
夢の中で、彼女は灰の大地を歩いていた。
焼け野原の向こうに、一本の大樹が立っていた。
その枝には言葉が実っていた。
「始まりの語」「終わりの語」「まだ語られていない語」——
風が吹き、大樹の葉がざわめいた。
語たちはその音に呼応し、鈴のように震えた。
幹には、火を象る印が刻まれていた。脈打つように赤く、まるで呼吸しているかのように揺れていた。
根元には、石で組まれた祭壇があった。
その中央に、小さな火種が浮かんでいた。
それは彼女の心に直接、語りかけるようだった。
「語れ。継げ。まだ記されぬものを」
語のひとつひとつが、彼女の中に溶けていく。
焼かれ、溶け、そして刻まれていく。
目覚めたとき、アカネは知っていた。
自らの中に火が宿ったのだと。
それは、ただ燃やすだけの火ではない。
物語を灯す火。
語を紡ぐための火だった。
その日から、アカネの中で、何かが静かに始まっていた。
それは、村の誰も知らぬ、新たな神話の端緒だった。