森に、霧が立ちこめていた。
薄く漂う白い気配は、まるで“語られぬ想い”が形を帯びたかのようだった。
語の樹の周囲では、リョウの涙から生まれた語の若葉が、
静かに息づいていた。
それは誰にも聞こえない、ただ“森”だけが知る音。
けれどその音は、イリカの語と同じように、確かに誰かの祈りから芽吹いたものだった。
◇
その日、イリカは村の“記憶の小径”を歩いていた。
そこは、語り手たちが歩んだ足跡を記録する、
苔むした道。
石碑の一つひとつには、過去の語り部の名と、
彼らが残した言葉の断片が刻まれていた。
だがその途中――一つだけ、名のない碑があった。
石肌は粗く、文字はない。
けれどその上にだけ、淡い緑の葉が一枚そっと落ちていた。
(語られなかった語。記録されなかった記憶)
イリカは、その石に手を触れた。
次の瞬間、静かな震えと共に、声が響いた。
「……わたしは語れなかった。
語るたびに、誰かが離れていった。
だから、黙るしかなかった……」
それは、恐れと祈りの混じった声だった。
癒したくて語ったのに、
その語が誰かを傷つけてしまった者の声。
◇
イリカは、深く息を吸い、そっと語をひとつ紡いだ。
「癒せなかった語にも、意味はあった。
届かなかったとしても、祈りはそこに在った。
わたしは、あなたの祈りを受け継ぎます」
その瞬間、名のない石に、小さな芽がひとつ生えた。
まるで“語にならなかった祈り”が、ようやく芽吹いたかのように。
◇
その夜、祠の前に風渡りの者が訪れた。
灰色の外套をまとい、肩に風の羽を編んだ布を掛けていた。
「おまえの語が、ここから森の外へ流れ始めている。
それを、聴いた者がいる。
――“風の地”から、招きを持ってきた」
イリカは目を見開いた。
(わたしの語が、森の外に……)
旅人は、風に乗るように葉を一枚差し出した。
そこには、“語の輪を結ぶ者へ”という記された印があった。
それは、「語が語を呼ぶ」始まりの徴。
森の中で紡がれた語が、他の土地、他の語り手へと連なっていく予兆だった。
◇
イリカはその夜、祠の裏に“語の環”を編んだ。
それは枝と葉と語の実を使って、
形のない音を“形”として結ぶ輪。
「語は、ただ声になるのではない。
語は、人から人へ、土地から土地へ、静かに渡っていく」
輪の中央には、小さな語の灯が揺れていた。
それは火でも、光でもない。
“語り継がれようとする意志”のようなものだった。
イリカは静かに目を閉じた。
森の奥で芽吹いた小さな祈りが、
いま、土と風と記憶を伝って、誰かの元へと向かおうとしている。
――語は、命。
語り手は、それを手渡す“祈りの器”。
森は静かに見守っていた。
語りの系譜が、新たな輪を描くその瞬間を――。