語の樹が、小さく葉を揺らした。
それはまるで、イリカに問いかけているようだった。
――おまえは、癒す覚悟があるか。
イリカが少女の夢に触れてから、数日が過ぎていた。
森は静かだったが、風の音にわずかなざわめきが混じっている。
それは、どこか“揺らぎ”を孕んだ響きだった。
語が目覚めはじめている。
だが同時に、“封じられていたもの”もまた、揺れ動こうとしていた。
◇
その夜、祠にひとりの少年が運び込まれた。
「ミトノ林の外れで倒れていたのを見つけた」と、村の者は言う。
彼の身体には深い傷があり、意識は混濁していた。
衣服は焼け焦げ、腕には“黒い痕”が広がっていた。
イリカが手をかざすと、少年の胸から微かな呻きが漏れた。
(まだ……生きてる。語が、眠ってる)
彼女の胸の奥で、語の種が疼く。
(わたしに……この人の痛みは、癒せるの?)
◇
夜更け。
イリカは祠の奥、静かに眠る少年の傍らに座っていた。
かつて祖母が言っていた言葉が、脳裏に蘇る。
「癒しの語は、刃にもなる。
語る者が覚悟を持たねば、それは相手だけでなく、自分も傷つける」
癒すとは、痛みを奪うことではない。
痛みに“触れる”こと。
それは、時にその痛みを自らに引き受けることでもある。
彼女は静かに目を閉じた。
そして、語った。
「ねむれ……
いたみよ、すこしだけ……わたしにおいで……」
語が音となり、光となり、少年の身体を包む。
だが、次の瞬間。
イリカの胸に、鋭い痛みが走った。
体の奥から、ひび割れるような感覚が広がる。
(これは……この子が、背負っていた……!)
彼の記憶が、イリカに流れ込んできた。
炎に包まれた村。
必死に呼ぶ声。
手を伸ばしても、届かない誰かの背中。
それは、焼けるような絶望だった。
◇
「イリカ!」
気づけば、見張りをしていたリヒトが、彼女を抱き起こしていた。
彼女は倒れていた。
唇は青く、汗が額を濡らしていた。
「……だいじょうぶ……です……」
ふらつく体を支えながら、彼女は再び少年の元へ歩み寄った。
その顔には、わずかに穏やかな表情が戻っていた。
傷はまだ残っている。
けれど、その眠りは深く、苦悶の影は消えていた。
◇
翌朝、森にやさしい風が吹いた。
語の樹が枝を揺らし、葉の間から光が差し込む。
イリカは、自らの胸に手を当てた。
そこにはまだ、少年の痛みの一部が残っていた。
けれど、それを“重荷”とは感じなかった。
「これは……わたしが、この森とつながった証」
リヒトはぽつりと呟いた。
「おまえの語は、今や“深き癒し”の域に踏み込んでいる。
だがそれは、必ずしも救いとは限らぬぞ」
イリカはまっすぐ前を見据えた。
「救うんじゃない。
ただ、“痛みと共にある”ことを、選ぶだけです」
その瞳は、もはやかつての“沈黙の娘”ではなかった。
痛みに触れ、癒しを語る者の眼差しだった。
◇
その日、語の樹に一つの花が咲いた。
それは、“他者の痛みを知った語り手”にだけ咲く癒しの花。
その花は、風に揺れながらも、決して折れなかった。
イリカは見つめていた。
森がそれを、誇りと共に見守っていることを、肌で感じながら。
――癒しとは、語り手がその身をもって受け取る祈り。
語とは、痛みを分け合うことで根を張る“命”なのだ。