谷を抜け、森を越えた先――
カラハは荒れた村にたどり着いた。
木々は枯れ、屋根は崩れ、誰一人姿はなかった。
けれど、風だけはここに留まり、繰り返し同じ言葉を囁いていた。
「……あの夜、誰が語を偽った……?」
その声は、空気の隙間に入り込み、耳元で何度も響いた。
まるで、真実を告げられなかった“語の残響”が、この場所に取り残されているかのようだった。
◇
カラハは廃墟の中心に立つ、黒ずんだ石碑に気づいた。
そこには、一節の語が刻まれていた。
「この地は癒された。風と祈りにより、語は終わった」
だが風は、それを否定するように震えていた。
(語は……終わっていない)
彼は耳を澄ませ、風の奥からもう一つの声を聴いた。
「あの日、誰も聴かなかった。
わたしたちの語は、届かぬまま、記されてしまった」
カラハは、石碑の裏に回った。
そこには風に刻まれたような、小さな“風痕文字”があった。
風渡りの古い技法――語を刻むのではなく、
風に託して浮かび上がらせる祈りの記録。
そこに記されていたのは、まったく別の語だった。
「この地の語は消され、癒しという名の沈黙に閉ざされた」
◇
夕暮れ。
村の片隅に、ひとりの男が現れた。
粗末な外套をまとい、両目に白い布を巻いている。
けれど、彼は風の動きに正確に反応していた。
「……その碑文に、まだ耳を貸す者がいたとは」
名をオロチといった。
かつてこの地で語を封じる役目を負った、古き風渡りの記録者。
「語とは、時に“真実を封じる”ために使われる。
癒しの語も、沈黙の語も、すべては“記憶の形”を決める力だ」
彼は語を使って、村の語を終わらせた。
だがそれは“癒し”ではなく、“隠蔽”だった。
「ほんとうの語を、誰かが語り直さねば、この地は還らない」
◇
カラハは風笛を取り出した。
けれど、ただ音を鳴らすのではなく、
風に響く“断片語”――拾った声の欠片を重ねて、風の上に浮かべた。
すると、あの日この地で語られた叫びが重なりはじめた。
「だれも、聴いてくれなかった……」
「癒しなんかじゃない、ただの封じだ……」
「わたしたちは、ここにいる……まだ、ここに……!」
その響きに、オロチの手が震える。
「……やめろ。その語は、もう終わったはずだ」
カラハは静かに首を振った。
「終わらせるのは、語ることを許された者ではなく、
語られなかった者たちの“響き”自身です」
◇
その言葉に、風が変わった。
村に流れる風が、かすかな光を帯び始める。
廃墟の奥から、子どもの笑い声、母の呼び声、祭りの歌――
かつてこの地に生きていた人々の“語られなかった記憶”が、風のなかで芽吹き始めた。
石碑がひとりでに崩れ落ち、風痕文字がその上に舞い降りる。
カラハは風笛を吹いた。
それは、記録のためではない。
語が語に戻るための、祈りとしての笛だった。
◇
オロチは沈黙していた。
目隠しを外し、初めて夕暮れの光を見つめた。
「わたしは……語を封じることしか知らなかった。
けれど、いま、響きがわたしの中にも残っている」
カラハは語札を一枚差し出した。
「語とは、真実を定めるためのものじゃない。
ただ、誰かが“語り直すこと”を選んだとき、
それは新たな風になる」
◇
村の風は変わった。
もう、同じ語を繰り返すだけではない。
語られなかった記憶が、“今を生きる語”として響き始めた。
カラハは村をあとにする。
だが、振り返ったその瞬間、
風の中から、確かに“ありがとう”という声が届いた気がした。
風は嘘を語らない。
けれど、誰かがその語を“正しく響かせる”勇気を持たなければ、
語は記録の中に閉じ込められてしまう。
風は旅を続ける。
カラハの語と共に、まだ知られざる真実の地へ――。